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半袖シャツをデパートで買った話

老いが怖いというのは、外見が美しくなくなるとか身体のガタが増えてくるとか、記憶力や思考能力が落ちるとか単純に寿命が近づくとか、原因が色々ある。そのうえ、最近では横柄な老人やキレる老人に辟易してしまって「ああはなりたくないけどなってしまうのか……」という絶望感もプラスされているわけで。

でも、老いることが全部嫌かというと多分そうではない。何かと繊細だったガラスの十代よりおっさんになってからの方が随分と気楽だし、若い頃よりは世の中の仕組みを理解しているからあまり動じなくて済むし、自分と向き合ってきた経験が自然体で居られる技術を育んだ。そして、老いることへの「期待」、つまり、大人になることに憧れる子供のような期待、というのも、子供の期待ほどではないにせよ、実はある。


息子を用事先に送ったあとで妻と娘とデパートを訪れたある日、妻が私の半袖シャツを買おうと言い出した。半袖シャツは、南国で暮らしていると1年間での使用期間が長いからか想定よりも長持ちしない気がする。妻はあのシャツとそのシャツがそろそろ寿命だと言う。それらがなくなると確かにローテーションが上手く回らない。というわけで折角だからデパートの紳士服エリアを見てみようということになった。

デパートはターゲットとする年齢層や所得層が高い傾向にあると思われるが、紳士服は特にそう感じる。シニア向けのブランドか金持ち向けのハイブランドが多く、たまにそうでないテナントがあるかと思えば10代向けだったりする。ただ、デパートに限らず紳士服ブランドは「貫禄は出したくないし若作りもしたくない30-40代」には選択が難しいことが多く、20代メインのブランドでおっさんでも違和感のない服を選ぶか、中高年がメインのブランドで比較的若向けの服を選ぶか、判断に迷うところである。

私は、自身が若く見える(必ずしも良いことばかりではない)ということもあって、前者、つまり比較的若向けの店でオトナっぽい服を買うことが多いわけだけれど、今回はデパートである。必然、ラインナップはだいたいシブい。なんかカッコいい服があるぞと思えばハイブランドで庶民には手が出せないため視界からそっと遮断する。

それでももう40代だから、シブい服の中には「まあ着てもいいかな」と思えなくもないものも以前に比べて増えてきた。中高年向けの店で選ぶ頃合いが近づいてきたのかもしれない。そんなことを考えながら紳士服エリアをうろついていたら、ふと懐かしいブランド名が目に飛び込んできた。○○○○である。

後からそのブランドのウェブサイトを眺めると比較的若い大人向けの服もラインナップにあるようだったけれど、私の知る○○○○はけっこうシニア向けのイメージで、訪れたデパートのテナントのターゲットも明らかにシニアだった。しかし、中高年向けの店で服を選ぶことを考え出していた私は、思ってしまった。「そろそろ○○○○の服を着られる頃合いだろうか」と。実は、思ってしまっただけではなく、つい口に出してもいた。それを聞いた妻は足を止め、○○○○の店先に出ている服を物色し始めた。


○○○○というブランドは、私がハタチの頃にアルバイトをしていた飲食店の職人さんが好きなブランドだった。職人さんは私より20歳ほど上だったから一緒に働いていた頃は40歳になったぐらいだった筈だけど、今思い返すとそれにしては随分と老けていた気がする。いや、今の40歳と四半世紀前の40歳とでは老け込み方が違う気がするし、身の上話を聞く限りかなりの苦労人だったから老けるのが更に早かったのかもしれない。ひょっとしたらサバを読んでいたのかも知れないけれど、まあそれはわりとどうでもよくて、とにかく言いたいことは、その職人さんは○○○○というブランドが似合う風貌だったということだ。

職人さんは昼と夜とで別の飲食店で働くパワフルな人だった。もう少し若い頃には、夜はホストクラブで働いていたらしかった。ホストクラブというと今では若い女の子に無茶な売り込みをかけるような悪名高い印象があるけれど、当時は(少なくともその世界を知らない一般人には)そんな印象はほとんど無くて、お金持ちのマダムが余裕を持って男遊びをする場所というイメージだったし、私もその認識だった。職人さんもそういう感じの説明をしていたし、マダムを相手にするからホストは多少歳を食っていてもトークとかのオモテナシの技術が高ければわりとやっていけるみたいなことを言っていた。四半世紀前の話。

職人さんは、何度か私にプレゼントをくれた。その理由は「俺にも子供がいたらお前ぐらいの歳でもおかしくないだろ。だから親が誕生日プレゼントをあげる感じで上げたいんだ」ということだった。当時の私はただのアホだったので(注:今でもただのアホである)、なんかくれるなら貰うみたいな感じで貰うことにした。最初に貰ったのは腕時計で、流石にアホな私でも恐縮したけれど、「カッコいいかカッコよくないかどっちよ」と聞かれて「とてもカッコいいと思う」と答えたら「なら受け取れ」みたいな圧があってありがたく頂戴した。

その腕時計は○○○○の品で、職人さんによれば常連客にだけ紹介される特別なグッズで店頭には並ばないということだった。その後も何度かプレゼントを貰ったけれど、全部○○○○のそういった品だった。そうして、ある時、既にそのアルバイトを辞めて久しかったというのも多分あったと思うんだけれど、「今のバイトの子に上げたいからそろそろいいか」と聞かれて、「うん、もうたくさん貰ったよ。今までありがとう」と珍しくまともな返答ができた。

貰ったものの中には作りのしっかりした大きめの雨傘もあって、開くと青空と白い雲と飛行機の飛んでいる姿が描かれている逸品だった。貰ったその時は建物の中だったから傘の中がそうなっていることが分からず、ただのそこいらの傘だと私のアホな脳が認識してしまった。せっかくの貰い物なのに、職人さんと歩いて帰っているとき地下鉄構内で杖みたいに床にカツカツとぞんざいな感じで当てていたら、それを見た職人さんが「(ここならスペースあるから)ちょっと傘を開いてみ」と言い、私が開けた瞬間に私の脳はようやく誤認を改めるに至って、それから大切に抱えた。職人さんがそこらの安物をテキトーにくれるわけないのに。そんな私の姿を見て「大事にしてやってな」と優しく言った職人さんは、今にして思えば確かに高いホスピタリティを持っていた。なお、その傘は今でもずっと使っていて、子供たちが幼児の頃には「雨なのにお父さんだけ晴れていてずるい!!」と怒られたりすることになる。一度大雨のときにうっかり野晒しにしてしまってあちこち錆が出来てしまったけれど、それが逆にいい感じのアクセントになっているようにも感じられるし、まだまだ大事に使おうと思っている。


そんな職人さんとの思い出が蘇りながらデパートでのシャツ選びを始めた。ちょうど他に来客もなく、一人しかいないベテランの販売員さんが掛かりきりで相手をしてくれた。正直に「そろそろ○○○○さんの服を着てもおかしくないかなって」などと言うと、販売員さんは「いよいよこれからですね(笑)。みなさん同じ服を10年以上着てくださったりしますよ」と返してきた。妻には「男の人は結局自分が気に入った服ばかり着るから最後は自分で決めて貰った方がいい」みたいなことを言って妻も同意していた。小学生の娘は店内のテーブルに置かれたサービス用の飴を欲しそうにしていたけれど、生姜やら薬草やらが練り込んであるものしかないので止めた。

それで結局6~7着の中から一番気に入ったものを選んで買うことにした。クレジットカードで会計する際に暗証番号をいつものようにスパパパと入力すると「さすが早い……」と販売員さんが言い、さらに「いつものお客さんたちは暗証番号を思い出すのに時間が掛かるので……」と付け足すと、私達はつい笑ってしまった。でもきっとこのブランドがメインになる頃には私もそうなるんだろう。それまで存続してくれていると嬉しいなと思った。

一般的には老いに楽しみを見出す言説は多くはないし、実際には出来なくなることの方が出来るようになることよりもずっと多いだろう。でも、ハタチの頃に知り合った職人さんは、結果として老いることへの楽しみを一つ私に与えてくれた。その楽しみに少しは触れられるようになって色々思い出したので、ここにまとめておくことにした。まあ40歳から初老ですしね。


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