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ぼんやりと生きる 2全力で逃げること

突然ですが、生きるのって難しくないですか?
と、いきなり重い言葉を載せてしまうのは些か、引いてしまいそうになるな、と思ってはしまうのですが、でもやはりそう思うことの方が日々暮らしているとよくあるので、聞いてみた限り。

仕事も恋も人間関係も家事も育児も親のことやらなんやら、沢山ありすぎて人が抱えられる悩みを生まれながらにして許容量を既に超えているのでは?
それが現代日本という堅苦しい言葉を用いると、まっなんだ政治的な発言かよって冷たい言葉を投げかけられるんだろうなと思う。

上等だ、熱もない言葉に人は突き動かされたりしないだろうから、拙者聞く耳など持たぬ。
残酷な現実、現代日本をこれからの世代に残していくというのはとても心苦しいところ。どうすれば良くなるのか、それも皆目見当もつかない。なぜなら、既に重症どころか、延命治療をしている段階だからだ。
何しても、緩やかに崩れていくようにしか見えない。
だから、未来も見えない。盲目な日本人がそこにいる。
と、ここまで熱く語ったわけだけど、それでこの連載を終えるのはこれまたつまらないのでは?誰が読むんだこれって感じなので、日々の暮らしをぼんやりと書くことにしよう(元々コンセプトがぼんやりなのに、いきなりぼんやりしていないのは、ご愛嬌でてへっ)

前回は読書について書いたのだけれど、今回はどうしたものかと悩んだ末に、今回は日々の暮らしを。

コロナの収束が少しづつ見えてきた昨今、2年間あまり見かけなかった酔いつぶれた人や千鳥足でほっつき歩くサラリーマンを見かけることが増えたような気がするのである。
えっ早くない?って思う反面、日常が帰ってきたような安心感がそこにはあって、私は少しだけほっとしてしまう。しかし、一方でその景色に違和感を感じつつ、ギョッと目を丸くして異物を見るような目で見ている自分も確かにそこにいて。恐ろしく、このコロナという非日常に慣れていたからこそ、元の日常が何となく浮いていて、現実なのに、そちらの方が少しばかり現実離れしているようなのだ。
まっ日常が戻ってくることは素敵だし、そうなって欲しいのだが、何となく不穏。
隠していた箱の蓋を外すように、何かが溢れてきそうな怖さすらある。何故だろう。季節の訪れに聞こえてくる足音が優しいステップと言うよりかは重く、ジェイソンのような微かに引きずるあの不気味な音のよう。
そんな日々が続いているわけですが、私はそこから全力で逃げることにしている。腕を大きく上げて、腿の筋肉を空に向けて伸ばす。そうしていれば少なくとも気持ちは清々しいもの。
なので、逃げることを否定したりなんてしません。嫌なら、全力で逃げればいい。しかし、何も生み出せないのは少々つまらないので、何か生み出せるものはないかと模索しながら逃げていくのが大事。
社会に必要か不必要かは、関係ない。自分にとって必要ならそれでいいので、何かアクションは起こしておいた方がいい。そして、周りはそれをそっと見守ってあげるようにお願いします。何逃げてんだ、と目くじら立てないように。
他人に必要以上の感情をぶつけないことが生きることを楽にしてくれるような気がしますので、そのように。

世の中は、多彩な人がいると同時に自分とは全く違う価値観を持つ人がいます。だからこそ、多様性が創造され、社会というのは成り立つのです。
しかし、一定数その多様性を否定する人もいるわけ。それもお怒りで。
これは全く困った問題である。一々切れていると血管キレるぞと言いたいくらい、愚痴ばかり吐き出す。これが口で直接吐くのならまだいいのだけど、どうもSNSを使って、さらに悪辣に吐き出してしまう。
そうなると、無差別テロのように我々は被害者になってしまうのである。気持ちも病むってやつだ。
とりあえず、その指を止めようか。と言いたくもなる。
マイケル・ジャクソンが注意する時にこれは愛だよと言い訳かもしれないが、穏やかに言う。それだけでも周りは救われているわけだ。

怒りばかり口から吐き出すと大人と、言い訳でも愛を囁く大人なら、私は後者になりたいなと今も思う今日この頃。まとまりもない文書でごめんね。


では、皆様ご自愛ください。

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