「かわいい」は存在の全肯定
男性保育士ほど「セクハラ」的なものに気をつけて行動している人たちはいないのではないか、とふと考えた。
この間、保育園の会議で、ある新聞記事が共有された。
その記事は「ある男性保育士の子どもに対する性加害」についての記事だった。
「この保育園にも男性が数名います。どのような行動が周りからどういう風に見られるのか皆で考えて、行動から予防しましょう。」
と園長は全職員に語りかけた。
ぼくは肩をすぼめて、苦笑いしながら、近くの人に「気をつけます」的なメッセージを送った。
なんというか、こういうことは日常茶飯事で、別に取り立てて書くことでもないレベルなんだけど、とにかく世の男性保育士は、みんなこういうプレッシャーの中で仕事をし、生活をしている。
「あいつ大丈夫か」と。
常に「潜在的な性加害者」として見られている。そんな感じである。
で、当然いろいろなことに気をつけて保育にあたっているのだけど、そのひとつが子どもに対しての言葉がけ。
たとえば「かわいい」の使い方についてだ。
子どもたちはかわいい。
もちろん全員、かわいい。
全員かわいいのだけれど、「かわいいね」という語りかけは、場合によっては危険だなと思い、使うことを控えている。
危険というのは、もちろん一つには周りからどう見られるか、ということがある。
例えば女の子に対して、
かわいいね→抱っこする→大好きだよー
これはアウト(場合と状況によるけれど…)。
どこかに線を引くわけだけど「かわいいね」の前から引いておけば、まぁまず間違いないかなと、そういうことである。
*
で、ここからが本題。
「かわいい」が危険と言ったもう一つの理由は、子どもがかわいいと言われ続けることによって「呪い」をかけられる恐れがある、ということだ。
ジェンダーやフェミニズムの勉強から学んだことのひとつは、女子は「かわいい」という言葉で、呪いをかけられて育つということ。
呪いというのはつまり「その言葉によって思考や行動に制限がかかってしまうこと」
“「かわいい」と褒められる。
見た目がかわいいことが良いこと。だれかに好かれることがよいこと。男の子にモテることがよいこと。
かわいいは、価値がある。
かわいくなければ、価値がない。”
そんな風に思考を歪めてしまう恐れがある。
本来のその子の持ち味を発揮できずに、いつまでもその「かわいい」に縛られて、捉われてしまう可能性がある。
だからぼくは基本的に日常生活でも、子どもと接する場面でも女の子(女性)に対して無闇に「かわいい」という言葉を使わないようにしている。
でも、この間無意識に、自然に「かわいい」を使っている自分に気付き、はっとした。
それ以来、むしろ積極的に「かわいい」を使ってもいいのではないかと思うようになった。
それは子ども自身が「かわいいね」と使った時に「そうだね、かわいいね」と同調した場面だ。
それは、発達の緩やかな3歳児の子がダンゴムシを見つけて言う
「かーいーね」の一言であり、
その3歳児の様子を見ていた年長の子が言う
「◯◯ちゃん(3歳児)ってかわいいね」
という一言だ。
それぞれの「かわいいね」の一言に、ぼくは「そうだね、かわいいね」と同調した。
自然に、何も意識せず「かわいいね」と言っていた。たしかにダンゴムシも、その子もかわいいと思えた。
そして、よくよく考えると、そういう使い方は当たり前にしていた気もする。
何が違うのだろう。世の男たちが下心を見せて使う「かわいい」と、子ども達がダンゴムシや小さな子に向けて言う「かわいい」は。
この子ども達と共感をした「かわいい」は、つまりその対象を「愛でる」ということなのではないか、と思った。
め-でる【愛でる】
①かわいがる。いとおしむ。愛する。
②物の美しさやすばらしさを味わい楽しむ。賞美する。
(広辞苑より)
単に顔がかわいい、とか。
性的な意味で好みだとか。
そういう下らない意味の「かわいい」じゃない。
それはいうなれば「存在の全肯定」。
対象がそこにいて、存在していることを「かわいい」という言葉で、子ども達は肯定するのだ。
【かわいい-愛でる-存在の全肯定】
あなたは、かわいい。
あなたという存在をまるごと全部、認めて、愛するということ。
母や家族、その他近しい大人からそういった愛を受けて育った子どもが、同じようにその愛をダンゴムシや小さな子へむける。それが言葉としては「かわいい」となって現れる。
「かわいい」という言葉を何とも矮小な意味に閉じ込めていたのは、ぼく自身であり、ぼくを含む大人達だ。
子ども達の方がよっぽど真に、美しい意味を分かっていて無邪気に「かわいいね」といって、周りの多様な存在を愛でることができている。
ぼくにもその意味で「呪い」がかかっていたかもしれない。「かわいい」は無闇に言うべきじゃないという「呪い=言動制限」。
だから、今までは使うのを控えていたけれど、改めて「かわいい」という言葉のその自然性と普遍性に気付いた今、ぼくは子どもたちみんなに「かわいい」って言いたい。
ふつうに言いたいなと思う。
やっぱり子ども達に学ぶことは多いなと、今回も改めて思った。
これからは、ぼくも、子ども達のように愛でよう。身の回りのものを。
色々なものを「かわいい」といって愛そう。
その「かわいい」は別に下心じゃない。
存在の全肯定なんだ。
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