アナクロから「サイコロの旅」を考える
もしも、1960年代――。
HTB(北海道テレビ放送)が開局した時に、『水曜どうでしょう』があったら…
というコラボ動画を制作させていただきました!
『水曜どうでしょう』といえば、言わずと知れた日本一有名なローカル番組。鈴井貴之さん・大泉洋さんと、藤村D・嬉野Dらスタッフによる「旅」を中心としたバラエティ番組です。
初期の目玉企画である「サイコロの旅」は、サイコロの出た目で次の目的地と移動手段を決めて、ゴールの札幌を目指すというもの。1996~99年にかけて6回行われたシリーズです。
1996年だったから実現した「サイコロ」?
もしも、1960年代に「サイコロの旅」があったら――
という設定で動画を制作しましたが、当時、本当にそんなアイデアがあったら実現できたのでしょうか?
やってみて分かったのは、まず〝不可能だろう〟ということです。
まずは、技術的な問題。
当時のバラエティ番組はスタジオショー中心で、ロケものの番組などほとんどない時代。外ロケなら、きっとフィルムカメラで撮っていたことでしょう。しかし、そうなると大量のフィルムを準備する必要があります。持ち歩くとなれば「フィルム持ち要員」だけで2~3人のスタッフが必要だったのではないでしょうか?
また、夜のシーンなどは照明をガンガンに当てなければなりません。しかし、走行中の客車内で電源の確保は不可能…。つまり、夜のシーンは撮影できないわけです。
さらに、雑音だらけの列車内では、音声を録音するのも大変です。おそらく、出演者自らがずーーっとハンドマイクを握りしめていたに違いありません。
外ロケが手軽にできるようになったのは、80年代。「ENGカメラ」の登場からといわれています。しかし、それでも肩に担ぐような大きなカメラです。そんなカメラを担いで、公共交通機関で宛てのない旅に出るのはリスキーです。
演出の面から考えても、なかなか厳しいものです。
「水曜どうでしょう」の見どころの一つである、「ディレクターと出演者の絡み」。
本番中にディレクターが出演者と喋ることなどありえません(それは今でもそうなのですが…)。まして、1960年代にそんなことをしようものなら、おそらく鉄拳制裁が下ったことでしょう。
すると、初対面の出演者が2人だけで会話を回し続けることになります。
当時は〝話を聞かせる〟芸の時代。単調で、見続けるにはなかなか厳しいものがあります。
会話だけでなく、音楽要素もあったほうが盛り上がるのでは?ということで、浪曲師が選ばれたのではないでしょうか。
さらに、当時は一社提供番組ばかりの時代。スポンサーが番組制作にガンガン介入していたことでしょう。「わが社の新製品、番組の中で紹介してよ!」とお願いされたはずです。
ちなみに、本家でも登場するCGマップによる経路説明の演出は、紙の地図を用いて〝アナクロ変換〟しました。コラボ動画ですので、弊チャンネルを知らない方が「!」となる〝お残しポイント〟は……。よく見ると、お判りいただけますかね?
そして、当時の交通事情です。
サイコロ運のない広造さんが一発目に引いてしまったのは「急行・桜島号」。東京駅を10時半に発ち、終着の西鹿児島(鹿児島中央)に着くのは翌日の12時04分。乗車時間は、なんと26時間です。
しかも、列車の椅子はリクライニングのない垂直の背もたれ。想像しただけでお尻の肉が取れる夢を見そうです。
当時は長距離列車全盛時代。時刻表を見ると「上野発→青森行き・普通」とか「大阪発→出雲市行き・普通」など、とんでもない列車がたくさん走っています。
毎回そんな列車に乗り続けたら、撮影クルーに命の危険があります。
つまり…
これら3つのポイントががっちりハマった時代が、1996年だった――。
「今ならスマホで撮れるから、もっと後でも良かったのでは?」という声も聞こえてきそうですが、撮影許諾や第三者の映り込みに厳しい現代では、違った意味で〝不可能〟なのも面白いところです。
やっぱり、ピンポイントで〝あの時代〟だったから実現できたのでは、と感じます。そして、鈴井さんと時刻表が大好きな藤村Dが、当時そこに気付かれたこと。さらに、大泉さん×鈴井さん×藤村さん×嬉野さんの「妙」があったからこそ歴史に残る番組となったわけで、そう考えると本当に〝奇跡〟です。
いわずもがなですが、やはり〝正真正銘の先人〟は偉大だ。。と改めて思い知らされるコラボ企画となりました。
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「気持ちよさ」があったんじゃないの?
今年4月、北海道テレビ放送(札幌市)の本社ビルを訪ねました。本当に恐縮ながら、その〝先人〟たる、藤村さん・嬉野さんと鼎談させていただいたのです…!
野球で言えば、王貞治と長嶋茂雄に挟まれるようなもの(?)。天井人すぎるお二人に挟まれて、ただ小さくなるばかりでした。
「どうでしょう編集室」という、通常では考えられない〝特定番組専用の編集室〟でたっぷりお話を聞かせていただきました。80年代以降のテレビを実際に知るお二人の言葉は重く、話すことを忘れてすっかり聞き入ってしまいました。
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ふと、嬉野さんは僕の顔を見ると、
「まだ20代なんだよね?」と訊かれました。
そして、こう仰ったのです。
「あなたは昔のテレビに、どこか〝気持ちよさ〟があったんじゃないの?」
気持ちよさ…。
嬉野さんの言葉をただ反芻するだけで、返す言葉が見つかりませんでした。
確かに僕の昔のテレビに対する〝好き〟は、純粋な〝好き〟とは少し違う気がしていたからです。
「サッカーを見るのが好きです」とか「音楽を聴くのが好きです」という〝それ〟とは違うのを、きちんと言語化できてなかったように思いました。そこを、嬉野さんに突かれたのです。
「昔のテレビに〝引っ掛かる〟ところがあって、それが〝気持ちよかった〟んだろうね」
「そしてその〝気持ちよさ〟に共鳴して、その〝気持ちよさ〟を自分でも奏でてみたくなったってことかい?」
ああ、そうなのかもしれない。
昔からモノマネをするのが大好きだった。それも、アメリカのパトカーのサイレン音とか、エスカレーターの自動放送などという、いわゆる「細かすぎて」系。
なんでアメリカのパトカーってあんなに高音なんだろう…とか、なんでエスカレーターの自動放送っておばちゃんなんだろう…とか〝引っ掛かる〟ところがあった。
それが〝気持ちよかった〟からモノマネしていたのかもしれない。
昔のテレビにも〝気持ちよさ〟があった――。
「それを〝気持ちいい〟と思ったということは、今を生きている我々に足りていない要素があるのかもしれないなと思ったよ」
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若造がやっていることを、丁寧に解釈しようとしてくれるお二人のやさしさに包まれながら、新千歳を離陸。
憧れのクリエイターの背中がますます遠ざかった、20代最後の春でした。