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愛しているのは私たちだから

いつも仲良くしているグラフィックミスとシンハラタミル正月ぶりに会った。その時に彼女から実家で作ったであろうコキスを貰う。

午前中のティータイムにグラフィックの教室に向かうと、だいたい彼女は「ネスカフェボム(ネスカフェを飲もう)」と行って、ディモ(TA)にお金を渡して買いに行かせる。あまりにも毎回のことなので、たまには私が買いに行くよ、と言っても彼女は受け入れない。
そこで彼女に「なんでいつもネスカフェとか食べ物をくれるの?」と聞いた。すると彼女は「アーダレイ ニサ(愛してるから)」と言った。

今まで何度か彼女に対してこの手の質問はしてきてるのだが、その度に「パウ ニサ(可哀想だから)」とか「テーギ ウィタライ(ただの贈り物)」とか色々言われてきた。
でも今回は、もう少し踏み込んで聞いてみたくて、「でも何でアーダレイなの?」と聞いた。すると彼女は「アピ ニサ(私たちだから)」と言った。

その瞬間、私はその言葉で彼女が言わんとしていることが全部分かった気がした。さらに実際にそう言う人に初めて対面した気がして、驚きと感動(もはや畏敬レベル)で思わず「あああ…」と声が漏れた。
そんな私の様子はよそにして、グラフィックミスは「あなたもディモもこのハエも、みんな私たちだからこそ、愛してるのよ」と言う。いやぁ、分かるよ、分かる。でも、本当にそんな事言ってる人に初めて会ったから、私自身はもうビックリするしかなかったのだ。
私がこんなにも彼女の言葉に震えているのは、私が過去に修士論文で「私たち」について書いたからだ。その「私たち」はグラフィックミスが言ってる「私たち」そのものだったからこそ、ミスが「アピだから(私たちだから)」って言った時、なるほど!ってすぐに理解ができた。しかし、それと同時に自分がそっち(私たち)側の人間でないことを実感せざるおえなかった。

だからもっと頑張ろうとか、私もスリランカ社会に馴染もうとか、そういうことではない。そこには明らかに越えられない壁がある。だからこそ、正直「私たち」なんて本当にあるのか分からないと何度も思っていた。生活してる中で、いくらでも「私たち」なんて感覚を忘れてしまいそうになる。それぐらいに自分は主客二元論の思考と血と肉で出来ていることをスリランカに来てから感じることとばかりだったのだ。

修論で自分が「私たち」について書いたことは嘘ではない。しかし、本当に自分は「私たち」になりえているのだろうか?何度も疑問に思ってしまうことばかりで、自分の思う世界に自分は全然辿り着けてない気がしていた。
しかし、私はついにそれを体現する存在に出会ってしまったのだ。なんと言うか、グラフィックミスには叶わない。

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