霊場巡拝と私 その1
・御朱印掛け軸と霊場巡拝
私が霊場巡拝を始めたのは還暦の年からである。きっかけは交通事故死した弟の供養に、霊場の御朱印を押した掛け軸を作ってやりたくて四国霊場を巡拝した。その頃の私は仕事の悩み、家族の心配事などとたくさんのストレスを抱えていたが、巡拝して少し心が軽くなり、これはいいじゃないと嵌っことがよかった。
満願こと一つの霊場の巡拝を終える達成感も心地よく、お詣り仲間を誘いマイカーを駆って近場の霊場巡りは、私の息抜きと楽しみになった。
実はその頃、たいそう偉い大僧正様に面識を得た。独りで筑後のお寺を巡拝中のこと、或るお寺で御朱印をいただこうと、庫裏を訪ねた私に、応対してくれた和尚様は「いい時に来られましたネ、今これを書いていた処です。1枚記念に上げましょう」と書き上がったばかりで墨も十分に乾いてない色紙を下さったた。私は立派そうな色紙に驚き、大慌てで財布から千円札を2枚だったか3枚だったか取り出してテイッシュにくるみ、「これはお賽銭に‥」と、納経料とは別に差し出すと、和尚様は「かえって気を遣わせて、スミマセンナー、ならこの本も上げましょう。お詣りの参考にして下さい」と、もう1冊本を下さった。
後日、その顛末をお詣り仲間、というよりはお詣り大先輩に話すと、「あなた気に入ってもらえたのヨ、よかったわね」と言ってくれた。私はどう言いようもなくて、ただ「フーン」。しかし心の内では、人生の応援団が増えてくれることはいいこと、有難いことだナ、と考えていた。
先輩は私の気のない返事に落胆したのか、「あの和尚様は筑後の自分自分の寺の住職の他に、信濃の善光寺の副管主をもう10年以上続けておられること、日本で1,2に古い奈良時代創設の筑紫観音霊場や江戸時代に、領民の心の安寧を願い藩主自ら白装束で領内を巡って創ったと伝えられる筑後観音霊場を現代に再興した偉い和尚様である」とその業績を力説された。
「フーン知らなかった」、私は和尚様の温顔を蘇らせながらつぶやいた。そして興を覚えて、先日頂戴した本、『巡礼の道』(海鳥社1999」を初めて紐解いた。そして膝を打つ思いで思いで引き込まれた。「そう、私は巡拝にこんな参考書が欲しかったのよ」と、一気に讀了した。私の頭の中にバラバラで詰まっていた巡拝の知識が、ようやく系統立てて理解でき嬉しかった。
地元の他の霊場にも、こんな本が欲しい、こんな霊場本(寺の正式名称・住所・電話・fax・本尊・開山名と年・宗派・歴史・特記事項・地図・交通機関など)があれば、巡拝はどれほど助かり、心強いか、心底思った。
霊場巡拝と私 その2
・霊場本の執筆筆
私が面識を得た偉い大僧正こと菊川春暁霊場会長は、その後お目にかかる度に霊場ガイド本の執筆勧められるようになった。確かに私が巡拝を始めた20ウン年前は、今のようにナビもスマホも普及してなくて、目指すお寺を探すのは本当に大変だった。もちろん全国的に著名な霊場には懇切丁寧なガイド本があったが、地方のそれは皆無に近かった。
私自身もかねがね、10年近くの巡拝で知り得た情報を、活字化しておいてあげたら、後に続く人に役立つのではと考えていた。そうすれば私も40年も働かせてもらった社会への恩返しになるし、そんな思いがあった。菊川会長の御本を読ませていただいてからは希望が一層明確になった。
70代に入り、仕事と介護から相前後して解放された。仕事は非常勤定年、母は脳梗塞を起こして、最後の入院から3ケ月で逝去した。やっとガイド本執筆の可能性が見えて来た。
まず、以前(50代初め)に私の本を出してもらった新聞社の出版部に相談した。幸いにも前に私の本の校正を担当して下さった方が、まだ嘱託で在職しておられて、話はとんとん拍子で進んだ。
そして、2008(ℍ20)に私の最初の霊場ガイド本『筑前の寺めぐり』を発刊した。これを皮切りに70代の10年間に8霊場、6冊のガイド本(西日本新聞社刊)を書いた。今振り返ると、この70代がどの年代よりも一番充実して、楽しく仕事をしたように思う。そして私の適性は人間相手よりも活字相手、一人であれこれとシコシコ調べて書く、そんな仕事が向いていたのだナ、この年になってようやくわかった。
さらに80代に入ると、新聞社の依頼で福岡県下の名刹・古刹40ケ寺の紹介記事を、1年4ケ月にわたって連載する仕事が来た。以前私に、霊場ガイド本の執筆を熱心に勧めて下さった大僧正様は当時、病気入院中だったが、自分の寺の記事を切り抜き、額に入れて壁にかけ、毎日楽しんでおられたと、ご家族から伺っている。喜んでいただけたらしい。
その後、連載記事に15ケ寺追加して、私の巡拝の忘れられないだろうし集大成として『福岡の名刹・古刹55ケ寺』(海鳥社2020)を発刊した。
霊場巡拝と私 その3
私の寺めぐりの原点は還暦の年、交通事故死した弟の後始末を一族の中心となって、取りさばいたことである。あの心労と多忙は生涯忘れられないだろうし、それがままた、私の晩年人生の大きな楽しみを作ってくれた作歌に嵌るきっかけにもなった。まさしく人生の出来事は禍福はあざなえる縄のごとしだと、しみじみ思う。詠んだ歌は技量的にはまだまだ素人の域だが、あの状態の中での平常心をかってもらえれば幸甚です。(2024.2)
、
・「四国八十八か所巡り」(1997.8.19~1998.3)
〇不慮に逝く亡弟の供養で巡り行く四国八十八ケ所クルマを駆りて
〇里山の奥に鎮まる古寺へ細き田んぼ道ゆるゆる走る
○黒潮の砕ける渚を左に見つつ次なる寺へ90余キロ
○足摺の白き灯台見下ろして弘法大師の寺は岬の突端
○従姉妹等の篤き援けで成就せり四国八十八ケ所巡りし旅は
○石鎚の頂近き岩山を穿ち建つ寺ほとけ座せり
○祭り日の如くに参詣客溢る湯の町道後にある石手寺は
〇戦国の城の跡とう山寺へ汗拭いつつ登る九十九折路
〇阿波・讃岐・伊予三国の境界に建つ霊場は雲辺寺とう
〇杣道のごとき山道クルマ駆る吾をねぎらうか山桜咲く
〇この寺で結願とう大窪寺山襞ふかく威風見せ建つ
〇法要の床に架けたる大師像巡りし寺々八十八の証 (「四国八十八ヶ所巡り」の宝印を軸装して)
・瀬戸大橋 ( 々 )
〇息つめる如して渡る瀬戸大橋斜に強風受けハンドル握る
〇正面の讃岐富士とう飯能山見つめて渡る瀬戸大橋を
〇光る海塩飽の小島左右にして真中の道をひた走り行く
〇海なかの小島伝いて架かる橋 白き道をばただ行く心地
〇見上げれば巨大吊り橋その中を轟音響かせ電車過ぎゆく
・故 郷 7 首(1998・11)
〇幼き日遊び泳ぎし故郷の浜で貝ほる懐かしきかな
〇カエル釣り昔遊びし池いまは従妹が飼える鴨が群れおる
〇松葉かき松茸とりし故郷の里山削られ高速道に
〇額には見事な星もつブルの仔が仔山羊と遊ぶ兄弟の如して
〇山中で拾われ来たる幼な鹿は母と思うか従妹に甘えり
〇牛に山羊、鹿、犬4匹、鴨にチャボ、狸も飼わるる従妹を母に
〇朝夕に馴染み眺めし絹島は国民宿舎となりて賑わう
・晩秋・年越し 7 首(1998.11)
〇歩道には落ち葉多なり車道には車列なす公園の朝(南公園)
〇亡き弟が吾を見舞いてくれし菊 贈り主亡き今も
我が庭に盛る
〇事故に遭い逝きし弟遺したる19の姪を吾は引き取る
〇亡弟に託さる姪の進学が決まりて嬉し我がことのごと
〇母老いて餅つき仕事回り来ぬ1斗1升の米洗う吾
〇50年も助手を勤めし吾なれば年越し仕事も滞りなし
〇迎春の準備ようやく終えたればテレビは告げぬはや除夜の鐘
(終了)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?