Dual Kaleidoscope 昇藤 14
「昨晩はよく助けに来てくれましたね、部長?」
あの凄惨な夜から一晩明け、部室で会った部長は本当にいつも通りだった。異様な妖しさを感じることもなく、普段の彼女がそうするように呑気に本を読んでいる。
「……ええ、あれぐらいは、部長として当然よ?」
「何で疑問形なんですか」
本から顔を上げた部長は首をかしげる。
こういうのは適当で当てにならない時の仕草だ。
「いや、それがね、神崎君のお母様に神無月初を降ろした後、どうしようもないって諦めながら彼女を見送ったの」
「はぁ、でもその後、俺の家に助けに来てくれたじゃないですか?」
「そうみたいね。奏美が私にそう教えてくれたわ」
部長はまるっきり他人事のように語っている。
あれだけのことを忘れてしまったというのか……。
「みたいって、覚えていないのですか?」
「まったく覚えてないわね。気付けば朝になっていて、枕元に神無月初を封じ込めた手鏡が置いてあったの」
「気付けばって……」
そんな馬鹿な話があるのか――母さんの身体に憑りついた神無月初を見事封じ込めたのはあなただろう。そして、あの夜感じた妖しさは"十年前"の再現だったのだ。
「あの時の部長は、神無月初を封じ込めた時のあなたは……、十年前初めて出会った時のようでした」
「初めて出会った時? よく分からないけれど、無事に何とか出来て一安心ね。神無月初を神崎君のお母さんに憑りつかせたときは、死すら覚悟していたから」
ほんと良かったわと、部長は納得した様子で読みかけだった本に目線を戻してしまう。
その投げやりさに肩すかしを食らった気分だけれど、それでいいのかもしれない。もちろん聞きたいことは残っているが、あの夜のことは曖昧なままにしておくべきだと思うのだ。
禁忌は禁忌のままに――桂家にはそういう部分が存在するのだろう。
「でも、あの手鏡はちょっと引っかかるのよね。あれは私のものじゃなくて……」
思い出したように部長は本をめくる手をとめ、小さく呟く。
彼女にしては珍しく、まだ何かを気にしているようだ。
「まあ、細かいことはいいじゃないですか」
「それも、そうね」
もうあの晩は終わったことなのだ。
一晩の儚い悪夢。
そう結論付けてしまっていい。
「改めて昨日はありがとうございました、"部長"」
下の名前で呼んでくれると嬉しいわ――あの言葉はきっと幻だろう。この常日頃通りの適当な部長を見ていると、そう願わなくてはいけない気がした。
◇◇◇
結局の所、私は何も出来ないまま、善治の一件は片付いてしまった。夕方過ぎに目覚めてすぐに、雅人と駿の無事を確認し、ついで携帯を開いてみれば、近藤からの大量の着信と一通のメール――ありがとう、助かったよとの元夫からの素っ気ない知らせが届いていた。
善治なりに思うところがあるのか、はたまた単に私たちに会うのが怖いのか、それ以上は何の連絡のなく、おそらくは今後もないだろう。
長年恋慕し、離婚した後も未練があった男との縁がついに切れたのだと、一つの区切りがついたことを私は実感した――この齢になって、一丁前に失恋したわけなのだ。
もう感慨に耽るほどの新鮮さはなく、いつかこういう日が来ることも理解していたけれど、頬に熱い水滴が伝ってしまったのはご愛嬌ということにしたい。
それとも、捨てる神あれば拾う神ありとばかりに、新しい恋が待ち構えているのだろうかと、熱い缶コーヒーを飲みながら思っていると、やっと待ち人が現れた。
正直、こいつが拾う神であって欲しくはない中年男、近藤一夫が死にそうな顔をして、走り寄ってきたのだ。
「部長! 無事だったんですね!」
「まあな、何とかといったところだったが」
近藤は膝に手を置き、ぜいぜいと肩で息をしている。
齢も考えずに走るからだとからかおうとして、近藤があまりに必死な形相をしているに気付いた。
「心配……、心配したんですよ! 何の連絡もなく社にこないなんて初めてでしたから」
「悪いな、すこしあって夕方まで寝込んでいたのだ。明日からは問題なく出社出来るよ」
私が肩をすくめ無事をアピールしても、近藤は納得していないように顔をしかめている。
「……喫茶店で会っていた男のせいですか? 善治とかいう男を助けるために、桂家にやっかいになったと?」
「何故そのことを?」
善治の話を社の人間にしたことは一度もない。
考えられるとすれば、昨日善治と会っていたところを見られたということぐらいだが、この目の前の抜けた男がそんなことをするとは思えなかった。
「それは今いいです! それより、桂家に何か頼むなんて絶対駄目だ!」
「…………」
どこから、あるいは何を説明すればいいのか。
適当に煙に巻けそうにもないから難儀なことだ。
「まず心配しなくとも、私の抱えていた問題は解決したし、桂家に特に何か要求されるということもないだろう」
「本当ですか? もし何かあるなら言って下さい。僕が必ず何とかしますから!」
近藤は鼻息荒く、いっそおかしなぐらいだ。
ただ、そう心配されてもこっちとしても困るだけだ。
実際、善治の一件は完全に決着し、あの桂家のガキが私に何か要求をするということもないだろう。
「大丈夫だ、本当に何もないよ」
「……信じても?」
「当たり前だ。上司の言うことは絶対だろうが」
着任した時にそうしたように強く言い切る。
あの時、こいつは私に散々に詰められて、救いを求めるような哀れなツラだったけれど、今回は違う――向こうも強い眼差しでもってこちらを見つめているのだ。
「分かりました。僕はあなたを、神崎部長を信じます」
ややあって頷いた近藤は、目に見えて安堵していた。
そこまでされて悪い気はしないから、一つ礼でもしてやろうとしたその時、"それ"は起こった。
「しかし、一安心しま……、どいて!!」
「えっ?」
まさに一瞬の出来事だった。
近藤が突然私を付き飛ばし、同時に何か嫌な音が響いた。
「近藤……?」
起き上がって見てみれば、髪が異様に長い女が立っていた。
それはいい。
問題はその女の手に赤黒く彩られた刃物が握られており、女の下では、真っ赤になった下腹部を押さえた近藤がいるということだ。
「貴様!」
反射的に私は起き上がり、女の横っ面を渾身の力で殴り倒し、手から離れた女の刃物を蹴りあげて横にやる。
倒れた女はぴくりとも動かなくなった。
「警察……、いや、救急車を呼べ、今すぐ!」
大声で叫ぶと、静まり返っていた周りの連中が騒がしく動き出す――そんな中、近藤だけが一声も上げずうずくまったままだった。
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