錦織静
「はぐれちゃったね」 「わざとだろ。あたしも共犯だけどな」 夕日も沈み、いよいよ夜の時間帯、私は幼馴染と祭りの喧騒から少し離れたベンチに腰かけていた。そこに神崎と部長の姿はない。人ごみが増えてきた頃合いを見計らってまいたのだ。 「あの二人、今頃どんな話してると思う?」 「さあな。あたしみたいな一般人には、あの二人の考えはわかんねえよ」 晃は所在なさげに冷えたたこ焼きを咥える。 部長が大好きなこの幼馴染にしては珍しく、今の状況に対して不平を言わない。私が部長と
夕日照らす中神泉の祭り場は活気で満ち、行きかう人々は思い思いの方法で祭を楽しんでいる。ある者は浴衣を着て艶姿を演出し、ある者は屋台の食べ物に舌鼓をうつ。あるいは誰かと共に祭囃子を楽しむのも、また一興かもしれない――目の前を歩く二人のように。 「たこ焼き食べる?」 宍戸が望月の口元に香ばしい匂いのする球体を掲げる。 「ああ、くれ」 が、望月が口を開けた瞬間にパクッと自分で食べてしまう。 「残~念でしたぁ」 「ちっ、うぜぇ」 望月は舌打ちする一方で、右手に持
「はは……あっははははははははっはははあっはっはっ――」 「笑い過ぎ、宍戸」 偶然出くわした部活仲間、宍戸小夜(ししどさよ)は破顔していた。 品も何もなく、腹を抱えてげらげら、笑いに笑っている。 「――だって、だって、部長のカレーを食べて死にそうになった晃を介抱してたら、ゲロふっかけられたんでしょ……っぷ、ははっははははははははははっ!!」 「笑うなって! 大変だったんだぞ、トイレから出たら店員さんから白い目で見られるし、結構な値がしたズボンには据えた匂いが染み
現在俺はコンビニのトイレで女子と二人きりである。 相手は望月晃(もちづきあきら)。 民俗学研究部――民研の部活友だちで、均整のとれたプロポーションの美人だ。少し近寄りがたい雰囲気を持つ気の強い女の子だけれども、その実とても友だち思いで優しい。 おそろく、百人いたら百人が魅力的な女性と感じることだろう。 しかも、今の彼女は目に涙を浮かべ、息が荒く、肌がほんのりと朱に染まっている。 そんなあられもない状態の女子と密室で一対一。 マンツーマンだ。 男と
ツンとしたエスニックチックなスパイスと、酸味を想像させる果物の混じり合った芳香が鼻腔をくすぐった。はて、部長はカレーを作ると言っていたけれど、部屋中を満たしているこの得も言われぬ匂いは、今まで嗅いだことのある〝カレー〟とは一線を画しているように思う。 ……正直、あまりいい予感はしない。 むしろ一抹の不安が心の中に生まれはじめる――そもそも、我が民俗学研究部の部長さま、ここ神旺町では押しも押されぬ名家のご息女であらせられる桂明梨(かつらあかり)さまは、料理という庶民の営
あの人はいつもそういう人だった。 いついかなる時も、綺麗で格好よく、それでいて容赦がない。 俺の母親、神崎美浦(かんざきみほ)は記憶にある限りにおいて、ずっとそのスタンスだ。他者を威圧すらする美貌、射抜くような眼光、直情的な思考、それらはきっと、俺が物心つく前から不変の母さんのあり方……、いや、きっと生まれる前からそうだったのだろう。 そんな変わらない姿が誇らしかった――ずっと俺は実の母親を尊敬し、あこがれ続けていたのだ。自分もあの人のように気高く生きられたなら
女は一言でいうなら異常なストーカーだった。 そいつは神崎部長の元夫、柳田善治という男に手ひどく振られたことを根に持ち、ストーキングを始め、その過程で神崎部長を知ることとなる。女は柳田善治の妻だった神崎部長に嫉妬心を抱き始め、勤め先に脅迫の電話までするようになり(神崎部長への怪電話の主はこの女だったのだ)、部長と善治が接触を持ったことを契機とし、ついにあの凶行に及んだというわけだった。 結局、その現場に偶々居合わせた僕が部長を庇い、すぐに部長が女を取り押さえて警察に突
「昨晩はよく助けに来てくれましたね、部長?」 あの凄惨な夜から一晩明け、部室で会った部長は本当にいつも通りだった。異様な妖しさを感じることもなく、普段の彼女がそうするように呑気に本を読んでいる。 「……ええ、あれぐらいは、部長として当然よ?」 「何で疑問形なんですか」 本から顔を上げた部長は首をかしげる。 こういうのは適当で当てにならない時の仕草だ。 「いや、それがね、神崎君のお母様に神無月初を降ろした後、どうしようもないって諦めながら彼女を見送ったの」
仏作って魂入れずという諺があるけれど、小夜の時は魂入れて仏作らずというのが正しかったのだろう。 神崎君に説明したように、凄腕のドライバーであっても、乗る車が凡庸の域を出なければ、エフワンカーの時のようなスピードは出せないし、発揮可能な運転技術を限られてくる。だから、私みたいな一流とは言えない人間でも、何とか抑えられたのだ。 だが、超一流のドライバーがその技術を如何なく発揮できる、超高性能なスーパーカーに乗ればどうなるだろう。きっと誰も追いつけない速度でもって、他者を
仁王立ちだ。 どれだけその立ち方が気に入っているのだと聞きたいぐらいだが、しかし思い出してみれば、この人はいつもそうして家の前で俺を待ち構えていたのだ。 だから、今日も肩幅に足を開き母さんは俺を待っていたのだろう――何かを伝えるために。 「ただいま、母さん」 「遅かったな。桂家に行っていたのか?」 母さんはあくまで真っ直ぐ、核心部分のみを告げる。 その姿が目に入った瞬間、ある程度察しはついていたが、俺が善治の一件を何とかしようと部長に頼んだことにもう気付
どんなに凄腕のドライバーであっても、乗っている車がエフワンカーでなく、普通の公道車であれば、たいした速度は出せない。 だから、母さんや、あるいは部長や俺みたいな異端者ではなく、宍戸のような一般人なら、凄腕のドライバーであるところのかの神無月初もたいしたことは出来ないはずだ。それに、宍戸は一度東防山に出向いているから、縁という意味でも都合がよく、代わりになる人物は他にいない。 そう部長がもっともらしく説明する横で、宍戸はお気楽にはしゃいでいる。 「なんかこれ、変な気分に
出版という仕事柄、ああした奇怪な電話や脅迫まがいの文章が社に送られてくることは珍しくなく、昨日の部長に対するあの電話もそうした手合いだと判断され、取り立てて騒がれることはなかった。 実際、部長は辣腕キャリアウーマンとして何度か地元のメディアにも取り上げられているから、嫉妬した誰かが嫌がらせの電話の一本ぐらいしてくることは、そうおかしくもないだろうと僕も思っている。それに、あの部長があの程度のことであたふたするはずもなく、あの後も何事もなかったかのように仕事を続けていた。
第三十六代神無月家当主、神無月初(かんなづきはつ)は室町期において大層名を馳せた陰陽師であり、ここ神旺町一帯に強い影響力を持つ豪族の棟梁という一面も持ち合わせていた。 彼女はその妖しい美貌と並外れた霊能力によって、神無月家を絶頂期へと導いた中興の祖とでも言うべき女傑なのだ。 そして同時に、応仁の乱という時代のうねりに呑みこまれ、築き上げた名声や権威を失い、ついには最愛の弟までも奪われてしまった悲劇の女性でもある。 そんなご先祖様は言うまでもなく過去の人物であり、何
何故母親は許せて、"元"父親は許せないのかと改めて考えてみても、そう確たる答えは思い浮かばない。あえて挙げれば、母さんはどれだけ俺に酷いことをしても、最後の一線を越えた十年前のあの夜までは見捨てはしなかったけれど、あの男は早々に俺たちの前からいなくなり、帰って来たかと思えばまたどこかへと消えて行ったから、ということぐらいだ。 だが客観的に見れば、あの時期において母さんもあの男も、決して褒められた親ではなかったし、仮にどちらがマシかという程度の差があったのだとしても、それ
"あいつ"との約束は一週間以上前からのものだったから、善治の一件で延期するように申し出ようかとも思ったけれど、結局こうして待ち合わせ時間をずらしただけにした。延期にしなかったのは、この日を多少は楽しみにしていたというのがまず一つ、そしてもう一つに気分転換という意味合いもある。 彼女は――望月晃(もちづきあきら)はそういう意味で良い人選というか、肩肘入れなくても良いぐらいには親しく、そして思いやりのあるやつなのだ。 「お前、何か顔暗くないか?」 そうして、待ち合わせ
自分の社会人としての歩みを一言で表すなら、〝平凡そのもの″だろう。地方国立大学を卒業し、地元では有名であった出版社に就職、少しばかり人より早く出世して、鼻息荒く派閥争いに足を突っ込み、運悪く敗れて閑職に追いやられ、気付けば後十年とちょっとすれば定年という年齢になっていた。本当にどこにでもいそうな中年負け組リーマン、それが僕という人間だった。 しかし、あの方、神崎部長が転勤してきてから、そんなありふれた僕のサラリーマン人生は全く変わってしまった。 着任と同時、くだらぬ