Dual Kaleidoscope 昇藤 1
「どう見えていたかだと? そんなもの、普通に見えていたとしかいいようがない。お前もそうだったはずだろう」
ふとある日、〝どんな風に見えていたの?〟と聞いた時、あの人はつまらなさそうな顔でそう答えた。それはまるで視力検査の一番大きな丸の向きを聞かれたかのような当り前さであり、俺にも同意を求めるかのような口ぶりだった。
けれど――俺にもきっとあの人に劣らぬ資質があったのだろうけれども――二人の見え方は何か違っていたのではないかと少なからず思うのだ。あの人は英才教育を受けた正当な後継者たるプロフェッショナルであった一方で、俺は生まれながらのその才能を何の訓練もせずに、ある意味で野放しにしていたわけだ。
だから、二人の感じる〝普通〟は違ってしかるべきであり、その違いを詳らかにしてみたい気持ちを不可能と諦めつつも、今でも多少は持っている。神崎美浦(かんざきみほ)と神崎駿(かんざきしゅん)――親と子の差異。
それはきっとお互いを理解する上で重要なことである上に、お互いの感情がもつれもする複雑な領域なのだ。
故に今回の件については、相互理解が進んだ、すなわち互いの差異が分かったということで、万事丸く収まっていると納得することにしたい。それが、柳田善治(やなぎだよしはる)という男――"元父親"が絡んだ今回の事件に対する、息子の身の振り方だ。
母さんがどうだったかはともかく。
◇◇◇
セオリーに従うなら、おとなしめの服装がいいだろう。最近の若い男にはガツガツした格好は受けない。大人の色気を出すよりは、安心感を与えるよう努めた方が賢明だ。
「となると、上はボーダーの入ったビスチェにオフホワイトのカーディガンでも羽織って、下はハイウェストスカートと……、靴はウッドヒールのサンダルにするか。少しラフな気もしなくはないが、季節的にこんなものだろう」
適当に考えたコーデに納得しかけて、一旦思いとどまる。
本当にこれでいいのか?
確かにこれまでの経験からも、年下相手に露出が多いような攻撃的ものや、きっちり着こなした隙のないファッションが良くないことはわかっている。だがしかし、今から会う奴は逆にそういうものを好むのではないか。
「それなら、肩口が開いたタイプのニットセーターに、少し短めのデニムスカート、それから黒のパンプスでどうだろう」
あのバカの好みに合うか?
思えば十五年以上も一緒にいて、私はあいつの趣味嗜好を良く知らないのだ。せいぜい食べ物の好みがわかる程度で、服や女の好き嫌いはよくわからない。
「あいつの女の好みねえ」
民研とやらの部活にいる女は、皆おしなべてレベルの高い連中だったが、それぞれ毛色は違っていた。見たところ、あいつの一番は部長を務める桂家の息女か。あまり賛成できる趣味ではない。私なら高校生らしい可愛さがある宍戸とかいう女を選ぶだろう。
「いや、待てよ……」
何かおかしい。
女や服の好みの前にもっと重要なことを私は見落としている。私は着ていくべき服を、今まで自分が体験した状況に則した基準で選んでいる――懇意にしている取引先との接待、仕事で失敗した部下を慰める飲み会、いい雰囲気になった男との逢引き等だ。だが、今日は会う相手は取引先のオヤジでもなければ、仕事のできない可愛らしい部下でもなく、ハンサムな伊達男でもない。
今日、私が会う相手は――
「自分の息子だ」
◇◇◇
休日の神旺(しんおう)駅はそれなりの賑わいを見せている。
田舎とはいえ、休みとなれば遠出する連中もいるのだろう。駅で普段あまり見ない家族連れや大人のカップルがせわしなく改札口を駆け抜けていき、中には俺のように誰かを待つ者もいる。
俺の待ち人は神崎美浦――母親だ。
東防山(ひがしぼうさん)での一件で親子のわだかまりを解いたすぐ後に、母さんの方から休みに映画でも見に行かないかと誘いがあったのだ。そこでこうして休日出勤から抜けてくる母さんを待っている。デートの待ち合わせみたいで少し落ち着かないが、相手はあの母さんだ。もし遅刻でもしようものなら、どうなるかわかったものではないので、待ち合わせ時刻より三十分も早くからここで待っているわけだ。
我ながら孝行息子だと思う。
と、そんな風に自分の置かれている状況を取りとめなくもなく考えているうち、ついに我らの女王様がやってきたようだった。
「待たせたな」
開口一番、鋭く言い放ち、女王様は改札口から颯爽と現れる。
「待ってないよ。今来たところ」
「ありがちな台詞だな。まあいい、行くぞ」
そして、すぐに目的地である映画館へ向かって歩き出す。息子と駅で待ち合わせるという奇妙な状況への感想や、映画を見に行くことになった経緯については少しも触れない。ただやって来て、行くだけだ。
実に母さんらしい。
この人はとても直線的に行動し、余計なものを嫌うのだ。その鋭い眼光やピンと伸ばした背筋は、一層そうした実直なイメージを強めている。
「ああ、そうだ」
「?」
突然前を行く母さんが立ち止まり、こちらを振り向く。
「この服、どうだ? 母親らしいか?」
腰に手を当ててファッションモデルのようにポージングする母さんの服装は、上から網目状に編まれた薄手の白ワンピースに、肌着は同色のブラウス、紺のスカートとハイヒールだ。
素直に、流石母さん、良く似合っていると思った。
とても四十近いおばさんには見えない清廉な美しさだ。
「似合ってるよ」
「そういうことを聞いているのではない。母親としてふさわしい服装かと聞いているんだ」
「母親として?」
どうしてそんなことを?
しかし、どうかと聞かれれば……。
「独身女優がお忍びで恋人と会う時に着てそうな服だね」
「…………」
高身長で八頭身ある母さんが着ると、そこらのワンピースも仰々しく見える。
それに、母さんに母親らしさとかを感じるのは、息子としてなかなか難しいところだ。そのあまりに若々しく端麗な容姿は、正直母性からはかけ離れていると俺は感じている。
「そうか」
率直な感想を受け、母さんは一瞬瞼を閉じた。
そしてすぐ見開いた眼(まなこ)で俺を鋭く睨めつけてくる。
「母さん?」
「お前は女心も親心もわかっていない奴だ」
「ちょっと、母さん!」
我がお母様は俺を置いて、カツカツとハイヒールで地面を蹴り、速足で歩き出してしまう。
どうやらご機嫌を損ねたようだ。
「悪かったよ! すごい母親らしいです!」
「死ね」
失言に対して辛辣すぎる!
まるでここ最近軟化していた母さんの態度が一気に戻ったみたいだ。
「私はわざわざ仕事場から一度家に帰って、この服に着替えてきたのだぞ。しかも、母親らしい服装とは何か、散々悩んだうえでの決断だ。それをお前は……」
「いやいや、女優って褒め言葉だって!」
「お前に容姿を褒められてどうする」
麗しの母君は俺の弁明を一顧だにせず、ご機嫌斜めでいらっしゃる。会ってすぐこれだと今後が思いやられるので、何としてもご機嫌をとり、荒ぶる母さんを宥めなければ――また十年前のように踏みつけられたら色々な意味で洒落にならない。
「いつも母さんが綺麗だと息子の俺も鼻が高いよ」
「……ふん」
歩く速度が遅くなった。
これは効果ありということだ。
「いや実際、そこらの女優より母さんの方がずっと美人だと思うね」
駄目押しにもう一つ褒め言葉。
女優より美人とまで褒めれば、いかに母さんであっても、少しは嬉しいはずだ。もっとも、息子の贔屓目(ひいきめ)なしに客観的に見たとしても、俺の言葉は大げさではないだろう。少しも加齢を感じさせないこの人の瑞々しく端麗な外見は、異常と言っていい域にある。
あるいはそれが神崎の、神無月の血ということかもしれない。
"不老の巫女"
平安より続く我が実家の霊的能力の結晶こそ、俺の母親である神崎美浦なのだ。でなければ、東防山においてご先祖様に憑りつかれたりはしない。
「行くぞ」
「うん」
だが、そのことはもうけりが付いている。
俺と母さんは十年前の場所から歩き出したのだ。
だから今は純粋にただ楽しめばいい。
息子が少しおだてただけで機嫌を直し、口元を綻ばせるわかりやすいお母様との親子団欒を。
◇◇◇
「これもなかなかだな」
サルサドッグをペロリと平らげ、右隣に座る母さんはソースの付いた指を舐めた。早めに映画館内に入り、併設のフードコートで舌鼓を打とうという提案に異論はなかったけれど、しかしよく食べる。フライドチキンにポテトにサルサドッグにポップコーンが二つ。ポップコーンだけ二つあるが無論二つとも母さんのもので俺の分ではない。俺は飲み物だけ頼み、昼に備えている。
そう、映画の後少し遅めのランチを食べる予定になっているのだ。けれど、この人はランチなどお構いなしにさっきからバクバクとジャンクフードを食べており、その引き締まった体のどこにそんなに入るのかいつも疑問で仕方がない。もっとも、大食いは今に始まったことではないから慣れているといえば慣れている――つまりは、俺の母親は食いしん坊キャラなのだ。
「お前も何か頼めば良かったのに」
言いながら今度はポップコーンに手を出す。
しかも、一つずつ手に取るのでなく、容器に直接口をつけて貪るように食べている。普通に考えれば下品極まりないが、この人がやると豪快に見えるから不思議だ。
「昼があるから飲みものだけで十分だよ」
「そう遠慮するな。私が今から何か買ってきてやる」
「いいよ、別に大丈夫だよ」
「なに? 私がわざわざ買ってきてやると言っているのに何が不満なのだ?」
「いや、そういうことじゃなくて……」
厚意は嬉しいが、そんな酔ったおっさんみたいな絡み方をされても困る。この人、絶対飲み会とかでも私の酒が飲めないのかとか言って、部下を困らせているに違いない。
まったく、我が母ながら難儀な性格をしている。
「今食べたら、昼に食べられなくなるから」
「ふん、お前は男のくせに軟弱だな」
だが、そんな取っ付きにくいところがいかにもらしくて、息子としては微笑ましく思ってしまう。
きっと母さんは母さんなりに今までのことを償おうとしてくれているのだ。今まできつくあたっていた分少しでも優しくしようと、俺に世話を焼きたがっているのだろう。
けれど、そこはあの不器用な母さんだ。
物を買うという即物的な方法をつい取ってしまう――俺はそんなことをして貰わなくとも、十分満足しているというのに。
「代わりに昼はたっぷり食べるから、財布の中身の心配をしておいて、母さん」
「……口の減らない奴だ」
母さんは呆れたようにため息を一つ吐く。
そして、遠い目でまだ何も映っていないスクリーンを見つめた。
「前にも言った通り、私の実家はな、実に旧態然としたくだらないところだったよ」
その瞳には何が映っているのだろう。
自分の生い立ち、実家、家出、結婚、そして子どものこと。
九旺祭での時と同じように、今までの過去を辿っているのかもしれない。
「父も母も、融通が利かず、頑固で凝り固まった考えをし、馬鹿げたことに執着する。そんな連中だった。それが私には我慢ならなかったから、家を出て善治と結婚し、さっさと子供を産んだわけだ」
同じ内容だ。
黄昏時の中神泉(なかしんせん)の祭り場で聞かされた話そのままだ。
「だが皮肉なことに、あれだけ忌み嫌っていた実家の価値観に未だに私も囚われていたのだろう。そのせいで、十年前にお前とまともな関係を築けず、東防山であんな無様をさらしてしまった……、まあ、今更何を言っても手遅れだがな」
ただ違うのは、あの時――九旺祭から変わっているのは、俺たちの関係だ。もう俺たちは止まったままではなく、歩き出している。
だから、この話にも続きがあるはずだ。
あの時、言えなかった何かがきっとある。
「せめて私に出来ることは、お前の生活を保障してやることと……」
「母さん?」
「私のようにあまり縛られるなと言ってやることぐらいだ。神無月のことも、桂家のことも、そして私のことも、お前は気にせずに、自分のしたいようにすればいい」
私はお前がどんなになってもお前の母親だよ――話の終わりの一言は本心からの言葉だと俺は信じられる。母さんは過去との決別をし、今度は息子である俺をしがらみから解き放ってくれたのだ。
「つまり親の脛を齧っていいってことだよね」
「ふっ、お前では私の脛は齧りきれないよ」
母さんは力の抜けた笑みをうかべ、俺はしたり顔で笑う。
これで本当に過去のことが清算されたのだ。
今日はこのために俺を誘ったのだろう。
「しかし――!?」
「どうかした?」
俺の方に振り向いた途端、何故か母さんは言葉を詰まらせる。
その視線の先を見ると、中年の男が俺の左隣の席に座ろうとしていた。
「えっ、神崎部長?」
「……ちっ」
男は母さんに気付くなり驚いた表情で固まってしまう。
「あのー、神崎部長ですよね?」
「……お前は本当に間が悪い奴だな」
二人の間に漂う微妙な空気で察する。
部長と言ったこの中年男は母さんの部下だ。
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