Dual Kaleidoscope 銭葵・上 3
現在俺はコンビニのトイレで女子と二人きりである。
相手は望月晃(もちづきあきら)。
民俗学研究部――民研の部活友だちで、均整のとれたプロポーションの美人だ。少し近寄りがたい雰囲気を持つ気の強い女の子だけれども、その実とても友だち思いで優しい。
おそろく、百人いたら百人が魅力的な女性と感じることだろう。
しかも、今の彼女は目に涙を浮かべ、息が荒く、肌がほんのりと朱に染まっている。
そんなあられもない状態の女子と密室で一対一。
マンツーマンだ。
男として、一男子高校生として、至福の瞬間かもしれない。
ただ、一つ問題があった。
今の望月は――
「うぅ……おっ、おげえええええええええええええええええええええええええええぇっ」
ゲロ臭かった。
強烈に。
「大丈夫か?」
「ああ、だいじょうっ――ぶげええええええええええぇえ!!」
「喋るなって……」
さっきから何度も嘔吐している望月の背中をさすってやりながら、トイレの流すボタンを押し、便器に溜まった薄茶色の吐瀉物を処理する。もうかれこれ半時間ぐらいトイレに籠っているが、望月からは復調の兆しが感じられない。
恐るべし、部長のカレー。
忠誠心の塊である望月をろくに歩けなくなるほど弱らせたのだ。
もはや食べ物というより毒物だろう。
「あんな無茶するから。自分の分はともかく、俺の分まで食べなくとも」
「別に。あたしが食べたかったか――うっ!?」
「おいおい、無理するな」
「――ハァハァ……、食べただけで、お前のためじゃねえよ」
ゲロりながらも望月は気丈である。
しかもこいつは、あの死にそうな顔をしながら、一時間近くも吐くのを我慢していた。理由は部長の前でそんなことをするのは失礼だからだそうだ。
望月なら、部長を神聖にして侵すべからず絶対の存在と考え、ゲロを吐くなど不敬極まるとか平気で考えてそうだから驚くには値しないけれど、いよいよ臨界点を突破しそうになってもやせ我慢するのはやめて欲しかった。
もし俺が気を利かせて、食後のデザートでも買って来ますねと近場のコンビニへ連れ出してやらなかったら、どうするつもりだったのか。
よもや耐えきるつもりだったとか?
どMすぎるだろ。
「しかし、あのカレーはひどかったな。ほとんど食べてない俺でさえ舌に嫌な感覚が残ってる」
「多少個性的な味だっただけだ。こうしてるのも、あたしの胃が軟弱だっただけで、部長の料理は悪くない」
「そうきましたか」
ここに至ってこいつはあくまで悪いのは自分であって、部長は悪くないと考えているらしかった。
いやいや、そういうのは素直に変態だと思いますよ。
「前々から思っていたけど、望月にとって部長はどんな存在なの?」
「一番尊敬している人だ」
あの人がいなかったら、今のあたしはない。
凛々しい表情でそう付け加える。
「……うう、うげえええええええっぇ」
ついでに、また吐く。
格好いい台詞も台無しだ。
「マジでもう喋るなって。部長は俺がメールで誤魔化しておくから、ゆっくり吐いておけよ」
「はあ、はあァ――ちっ……うぐっ」
マーライオンと化している望月は一時置き、部長にちょっと寄り道するのでマンションに戻るのは遅くなりますという旨のメールを送信しておく。
適当な人なのでこれで十分だろう。
役目を終えた携帯をポケットに突っ込もうと視線を落とすと、真隣でうずくまって便器に張り付いていた望月が、いつの間にかこちらを見つめていた。
「――ふぅふぅ……逆に、お前はどう思ってんだよ、部長のこと。しょっちゅう好き好き言ってるけど」
「うん? 俺? そりゃ、部長のことは好きだよ」
週に一回ぐらいは口説いている相手を好きじゃない理由はないだろう。性格はちょっと変わっている部長だが、俺は十分に魅力的な女の子だと思っている。
もし彼女が桂家の生まれでなかったなら、学園のマドンナのような立ち位置になっていたはず――現実は呪いのトーテムポールのごとき扱いだけどね。
「幼馴染だったからか?」
「いいや、俺が好きなのは今の部長だよ。昔どうだったかは関係ない」
十年前に俺と部長はほぼ毎日二人きりで遊ぶぐらいに深い仲で、あの頃も俺は部長が好きだったと思う。
かといって、今の桂明梨――高貴さ漂う美しさと高い知性を持ちながらも、適当で子供っぽいところがある部長は、十年前とは別の存在だろう。実際に昔の俺は、部長が桂家の娘という理由で神旺中から忌み嫌われていることを知らなかった。
知らずに好きだった。
今は知っていて、好きだ。
過去は過去、今は今。
昔彼女を好きだった気持ちは、現在の気持ちとは異なる。
「……あたしや小夜にも同じように軽々しく色々言ってるけど、それはどうなんだよ?」
「望月や宍戸は、それはそれで好きだよ。むちゃくちゃかわいいし、いい奴だし」
可愛ければいけが俺のスタンス。
基本的に選り好みはしない性質であり、もう宍戸や望月ぐらいの女の子ならいくしかないだろう。
無論部長にもそうだ。
「というか、男子高校生なんて、大抵は可愛い子には見境ないだろ」
「見境ねぇ」
望月は俺の考えに納得していないのか、半目でこちらを凝視している。
経験的にこれはとても良くない感じだ。
こういう時のこいつは、とんでもないことを言うかしてくる可能性が高い。
果たして俺の予想は当たり、望月はさらに目を細め、
「じゃあ――」
一呼吸おいてから、
「あたしと付き合えるのか?」
思いもよらぬことを口にした。
「……えっ!?」
俺と望月が付き合う?
まさか朝に喫茶店で〝やっぱりまだいい〟と言っていたのは、伏線だったとでも?
「冗談だよな?」
「違う」
「あんまりからかうなよ」
「からかってない」
望月は真剣そのもので、ふざけているわけでもからかっているわけでもなさそうだ。しかし俺には訳が分からず、頭の中はクエッションマークだらけになった。
疑問その一。
だって、お前はさっきまでゲロ吐いてたんだぞ?
疑問その二。
どうしてそこから付き合うとかそんな話になる?
疑問その三。
こういうのは、放課後の屋上とか体育館の裏とかでするものだろう?
なにより付き合うのは、お互いに好意があることが前提じゃないか。
俺が望月を好きだったとしても、その逆は成り立つまい。
「いや、望月は俺のこと好きじゃないだろう」
「あたしはお前のこと、好きだよ」
成り立ってしまった。
えらくあっさり。
「一月前にあたしを助けてくれた時、お前は格好良かった。それで十分だ」
「…………」
一月前の出来事はよく憶えている。
確かに俺は望月を助けるような形になって、そしてそれから彼女の態度は変わった。それまでのよそ者扱いから、部の仲間として接してくれるようになった。
だが、それだけで?
恋って、もっとらしい理由が必要じゃないのか?
「お前、本当にあたしのこと好きなの? 小夜は? 部長は?」
「望月や宍戸のことはもちろん好き、だけど……。でも、付き合うのは……」
どうなんだ?
考えたこともなかった。
情けないことに、俺は彼女たちを口説いていながら、具体的な関係になることをほんの少しも考えていなかった。むしろ、思いつかなかったと言ってもいい。
何せ、俺は神旺に戻ってくるまで、都会の男子校で剣道一筋に打ち込んでいたお堅い男だ。無論、女気(おんなけ)の欠片もない剣道部所属の俺に彼女がいたことはない。だから、朝の喫茶店でもあんなに慌ててしまったのだ。
本当に情けない限りだけど。
「部長は?」
「部長は……」
"俺の"恋人になっている――今の先輩でも、昔の幼馴染でもない、彼女としての桂明梨。
最高じゃないか。
想像して表情が緩んでしまう。
望月はそんな俺の様子を見てとり、不機嫌そうに舌打ちする。
「ふーん、だいたいお前がどう思っているかわか――っう」
「どうした?」
「……ぅ」
「望月?」
「――ッげえええええええええええええええ!!」
盛大に吐いたものだ。
……便器ではなく俺のズボンに向かって。