わが衣手は露にぬれつつ【小説ノック1】
朝起きて家を出るまでのシーン。
***
つけたばかりのテレビ画面、その左上には、《6:31 るり湊 曇りのち晴れ 20℃》の文字が流れていく。きっと今日は、昨日よりも肌寒いのだろう。十月も半ばになれば、さすがに気温も下がってくる。昨日のうちに、厚い方の作業着を洗っておいて正解だった。さすがにもう、夏物では外での作業に耐えられない。
キッチンの窓から見える、近所の小学校の大きなクスノキ。地域のシンボルとして知られているその枝が、わさわさと揺れている。本当に晴れるんだろうか、というくらいに風が強そうだ。
テレビをつけるのはただの習慣で、チャンネルは毎朝適当だ。番組が見たいわけじゃなく、天気だけ確認できればいい。正直内容をちゃんと見るのは、夕飯の時くらい。それでも一人暮らしの1DKには、何らかの音声が必要だった。それが今は、キッチンに置かれた小さなテレビという訳だ。
『すごーい、こんなにフルーツたっぷりのタルトなんですね!』
画面の中では、どこかで見たことのあるような女の子がケーキを食べている。男女を問わず、アイドルとかタレントとか、そういう人たちが同じ顔に見えてしまうくらいには興味がない。いや、年上の俳優とかなら、少しはわかるんだけど……若い人とか流行とか、本当にわからない。
映っているのは、どうも東京のカフェらしい。そんな遠いところの話をされても、この県を出たことのない俺には全く関係ないわけで、すぐに電源を落とした。
あくびを噛み殺しながら、冷蔵庫からペットボトルを取り出す。冷えた水をコップに半分だけ注いで、いつものように時間をかけて飲む。そうすると、寝ぼけた頭がだんだんと冴えてくる気がしている。気がするだけかもしれないけど。
なんとなく昔から、水道水をそのまま飲むのが好きじゃない。かといって朝からコンロを使って湯を沸かすのも面倒だ。だからこうしてペットボトルの水を買っているのだけど、ミネラルウォーターとかではなく、ただの水を買うのもそれはそれでもったいないとも思う。電気ケトルとかいうやつが便利らしい、と気になってはいるんだけど、何かのついででいいかと思い始めて半年くらいたっている。多分もうしばらくは放置するだろう。
二リットル入りのペットボトルは、半分よりは少なくなっている。冷蔵庫の横、キッチンの隅に置かれた段ボールにはあと二本しかない。また買いに行かないと……次の休みは金曜日、四日後か。シフト労働だと、こういう時いちいち予定を考えなきゃいけないのが面倒かもしれない。
俺の職場、るり湊ボタニカルガーデン――とかっこつけた名前を名乗ってはいてもただの植物園な訳だが、年間を通して休園日はない。年末年始やお盆でさえ、人が来なくても開けるだけは開けていたりする。多分開いていることを知られていないんだろうけど、そこは本社の広報が頑張ってくれ。
親会社が観光業をやってる関係でそうなったらしいが、そのこと自体に文句はない。るり湊市は主に観光業で食べているようなものだし、そこを否定するつもりはない。
そもそもの話をすると、植物に人間のカレンダーは関係ないわけで、今日も開園前から出勤して植物たちの世話をする。水やりだの草むしりだのも、肉体的にはしんどいが楽しい。来園者への対応は、俺にとってはおまけみたいなもんだ。
結局、人間相手の仕事よりは性に合っている、と思う。少なくとも、植物は嘘をつかないし。一生懸命言葉を聞こうとすれば、それなりに理解できる相手だ、と俺は思っている。まあ、本当に喋ってくれればどんなに楽か、という場面ももちろんあるけど。
人見知りというか潔癖症というか、色々あって人づきあいが苦手な俺の……大げさに言えば、天職とでも呼べるかもしれない。
「……天職ね」
独り言を言っても、返してくれる相手はいない。今のところ結婚する予定もないし、そもそも他人と一緒に住むことが想像できない。恋人ができても、同棲はしたくないなと昔から思っていたりする。それを人に話すと否定されることもあるけど、ほっといてほしいと心から思う。
ペットボトルを戻し、ぐうっと伸びをする。今朝はそんなに腹も減ってないから、何も食べなくてもいいか。朝飯は、その日の調子で食べたり食べなかったり。何も食べない方が用意しなくていいから、楽と言えばそうだ。
こういう日は、さっさと着替えてしまう。寝室兼リビングに戻り、部屋に備え付けられた申し訳程度のクローゼットを開けた。
着ていたスウェットはベッドの上へたたんで、出勤のための服に着替える。同僚の兼正さんなんかは、『毎日通勤のためだけに気を遣えないよ』なんて言うけど、適当な服装で気持ち悪くないのかな、とか思ってしまう。いや、思わないんだろうな。
とは言ってみるけど、チノパンに厚手のシャツという、可もなく不可もないような格好をいつもしている俺だった。実際そんなに着飾ってもしょうがないし。仕事帰りにどっか寄って、知り合いに会っても恥ずかしくない程度、というのが俺の基準ではこのくらいだ。
クリアケースの上にたたんでおいた作業着をバッグに詰めながら、キッチンの方へ。あとは五百ミリのお茶のペットボトル、財布も入れて、カードケースは最初から入れっぱなし。夜に作っておいた昼飯も、冷蔵庫から取り出して入れる。ついでに冷凍庫の保冷材も。最後に机の上に置いといたケータイをチノパンのポケットに突っ込んで、準備は完了だ。
腕時計を見ると、五十八分。少し早いがいつものことだ、もう出よう。
玄関に向かい、靴箱から取り出したのはいつも履いている仕事用のスニーカー。だいぶくたびれているこいつも、そろそろ買い替え時かもしれない。金曜日、どこか大きいところにでも買い物に行こうか。
「あ、電気ケトル」
なんかのついで、あったな。じゃあ今度の金曜日は、スニーカーを買って、ケトルも見よう。それでもし安かったら、買ってしまおう。久しぶりに、休みの予定ができてしまった。この三日間は、なんだか明るく過ごせそうだ。
部屋と車の鍵は靴箱の上にある。スニーカーを履きながら左手で取り、部屋のドアを開けた。ふっと風が吹き、予想していたよりも寒いことに気付く。……今日一日くらい、我慢できるだろうか? それにまだ、上着を着るほどではないような気もする。
数秒考えて、結局そのまま家を出ることにした。上着のことはまた明日、考えればいいことだ。
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