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富士の高嶺に雪は降りつつ【小説ノック4】

ぱっと目の前が開ける感じ

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 雪を連れて図書館に来るようになって、もう三年近く。ふと、そんなことを考えた。そんな雪も、三か月も経たないうちに小学生になる。
 普段の雪は、それなりに大人しい子だけけど……本を読んでいるときはびっくりするくらいじっとしている。それくらい、集中力が凄い。だから図書館に連れてくれば、こちらもそれなりに気を抜けるという訳。勿論、ちゃんと様子を見てはいるけど。
 今日も図書館に来るなり、一目散に自分の背よりも大きな本棚に向かった。手の届く範囲で本を選び、その場で読み始める。借りて帰るのは、その中でも気に入ったものだけ。十五冊めいっぱい借りても、一週間も経たないうちに全部読んでしまうのが雪だった。
 こども室で座り込んで、あの子は一心不乱に本を読んでいる。その様子を、私は数歩離れた椅子に座って眺めていた。ここ、瑠璃中央図書館は家から近いし、ほかの市立図書館と比べて子ども室も広い。オレンジや赤色の丸椅子が置かれていて、雰囲気もいいと思う。だから日曜日になると、必ずといっていいくらい雪を連れてやってくる。
 雪にはしっかり好みがあるらしくて、今もほら、開いてもすぐに棚に戻す本もある。私には、その基準はよくわからない。それでもなんとなく、実際にあった話よりも作り物のお話の方が好きみたい、ということだけは知っていた。
「おかあさん、これ、なんてよむの」
 その時雪が、手に取った本を見せに来た。この子はまだ漢字が読めないから、私に頼るしかない。漢字の勉強は小学生になってから始めればいいか、というのが我が家の共通認識。だから今まで、ちゃんと教えたことはないのだった。
 絵本というには分厚いそれは、表紙に青い空の絵、裏表紙に夕やけの絵が描かれていて、背のあたりで色が繋がっていた。タイトルは、白い雲のような文字で、こう。
「これはねー、『空の郵便屋』って読むんだよ」
「ゆうびんやって、おてがみもってきてくれるひとでしょ?」
「そうだねー」
 本を開いて、雪は難しそうな顔をした。覗き込んでみると、漢字の量に対してふりがながほとんどない。雪にはまだ難しいだろう。
「これは、もうちょっとお兄さんになってから読もっか。ね?」
「……うん」
 雪は最近、絵本を手に取ることが少なくなった。図書館にあるお気に入りの絵本は、もうほとんど読んでしまったから、というようなことを雪は言っている。この子なりに、本気で言っているのだろうとは思うけど。
「今日はどれ借りてく? なんでもいいよ」
「でも、よめない」
「お母さん、読んであげるから」
 黙り込む雪に、私も何と言ったらいいんだかわからない。なんでかというと、そもそも私は本を読むほうの人間ではないからだ。
 雑誌なら普通に手に取るし、映画は好きだから物語もわかる。ただ、雪みたいに小説……と言うものかはわからないけど、とにかくそういうもとあまり接しない人生を二十七年も送っている。だから母親の私だけど、雪の気持ちがイマイチわからない。
「お母さんが読むのは嫌?」
 とりあえず、考えられる理由を聞いてみる。
「うん」
「おばあちゃんか、おじいちゃんに読んでもらおうか」
「やだ」
「そっか、一人で読みたいんだね」
 私に読んでもらうのが嫌、とかじゃないみたい。そろそろ小学生でもあるし、自立心? というやつが芽生えてきたのかもしれない。
 でも、今この子が一人で読むのは無理だ。どうやったら助けになれるんだろうって、思ってはいるんだけど。
「一人で読みたいのはどうして?」
「だって」
「うん」
 雪の、本を持つ手に力が入る。私はそっと本を取り上げた。もじもじとしながら、雪は口を開いたのだった。
「はずかしい、から」
「えっと……?」
 それは、どういう意味の《恥ずかしい》なんだろう。人に本を読んでもらうのが? それとも、漢字を読めないこと? 私はその言葉の意味をうまくつかめなくて、聞き返した。
「どうして?」
 さっきから質問ばかりして、情けない。私と雪は違う人間で、だから話をしなきゃいけないのに。
「雪は、どうして恥ずかしいんだろう」
 口から零れ落ちたのは、そんなつぶやきだった。問いかけじゃなくて、独り言みたいな。見ると、雪は難しい顔をして、口をとがらせている。これは、不満なときによくする顔だ。
「だって、ぼくね、ひとりでよみたいから」
 一生懸命話す雪。
「……うん」
「もうすぐしょうがっこうだし、おにいちゃんだから」
 私の顔を伺いながら、雪は話す。
「おにいちゃんだからひとりでよむ」
「そうだね。うん、そっか」
 これ、私のせいかもしれない。思い当たることに、内心頭を抱える。この間から、「もうすぐ小学校だね」とか、「もうお兄ちゃんだもんね」とか言いまくっていた、私の言い方がまずかったんだ。
 私はただ、この子が無事に成長したことが嬉しくてそんなことを言っていたのだけど……伝えたかったのは、そういうことじゃない。
「雪、あのね」
「うん」
「お兄ちゃんでも、本、読んでもらってもいいんだよ」
「ほんとに?」
 きょとんとした、雪の顔。それを見てこみ上げてくる笑いを、必死に抑えていた。この子は早生まれだからまだ五歳だ。
「本当」
「じゃあ、よんでもらうことにする」
「うん。……あとね、もうすぐ小学校の雪くんに、特別プレゼントしちゃおうかな」
 そんなことを言ったのは、完全に思い付きだった。誕生日でも何でもないけど、別にいいじゃない。
「え?」
「漢字の本を買って、お勉強しよう。ちょっと早いけど、もうお兄さんだもんね」
 なんとなく、小学生になってからでいいよね、と思っていた漢字の勉強。でも雪には、今が始め時なのかもしれない。
「漢字、難しいけど頑張れそう?」
「うん」
 雪の目は、輝いている。思えば雪は、文字や言葉に関しては成長が速い子だった。次のステップを、もう自分で登り始めているのかもしれない。気付いてあげられなかったな。
「じゃあ、借りる本を決めて、本屋さんによって帰ろうね」
 『空の郵便屋』を手渡すと、雪は大事そうに抱えた。
「うん」
「買うのは漢字の本だけだからね?」
「……わかってるもん」
 そう言いながら、雪はまた口をとがらせている。そうはいっても、気をつけなきゃいけないのは私の方だ。今月余分に使える予算、いくらだったっけな。

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