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声きく時ぞ秋は悲しき【小説ノック5】

秋じゃなくなった。

***

 冷たい風が吹く中、ポケットから鍵を取り出してアパートのドアに差し込む。手が震えるから、がちゃがちゃ鳴るだけでなかなか開かない。
「うう、寒いい」
 目を白黒させながらなんとか開けたドアの間に滑り込むと、さっと閉める。部屋の中は外気が入ってこないとはいえ、冷え切っていた。しいんとした部屋に一人帰る寂しさにも、すっかり慣れたもんだ。
「寒い、ああ、アイスになっちゃうー、冷え冷えのー」
 その場の気分で歌いながら、マフラーと、コート、そして肩掛けバッグをラックにかけた。まずは手を洗わなきゃ、とワンルームを横切ってシンクの蛇口をひねる。
「うー、早くお湯出て!」
 このアパート、お湯が出るのが遅くてつらい。冷たい水だと「あああ」となるから、どうしてもお湯じゃないと嫌だ。ちょいちょいと水に触りながら、温度を確かめる。やっとあったかくなってきたところで手を濡らす。
「たん、たらら、たん、たん」
 歌いながら、石鹸を泡立てる。手首までしっかり洗って、ゆっくり洗い流したら、完了だ。タオルでしっかり拭いた後、玄関に戻ってバッグからスマートフォンを取り出す。ちょっと前に思い切って買い替えたばかりのそれから、これまた最近始めたばかりのメッセージアプリを起動した。
《今帰ったよ!》
 とりあえず、それだけを送る。電話だと相手が出られるかわからないし、先にこうやってメッセージを送れるのが凄く便利。おまけに基本無料だし。……いやでも、張り切ってスマートフォン買ったせいで、しばらくは節約しなきゃいけないんだけど。
 それはさておき、返事を待つ間になにか食べよう。うーん、冷蔵庫になにかしらがあったはず。冷蔵庫を開けると、チルドのうどんが一パックだけ転がっていた。
「よし」
 コンロに片手鍋を置いて、ちょっとの水を入れる。火にかけて、冷凍庫から作り置きの野菜スープを出したら、鍋にドボン。バイトがない日に一生懸命作って冷凍しといた、味は普通のスープを。スープが溶けて沸騰したら、うどんをさらにドボンと入れて、かき混ぜながら茹であがるのを待つ。
 その時、アプリの通知音が鳴った。
「便利だけど、せわしないなー」
 スマートフォンを見ると、返信が返ってきていた。
《七時半電話する》
 あと一時間くらいだ。
《OK!》
 スタンプで返事をして、いそいそとコンロの前に戻る。ぐつぐつと煮える鍋の火を止めて、そのまま鍋ごとこたつの上に持って行った。洗い物は一枚でも少ない方が、一人暮らしにはありがたい。
「って、こたつのスイッチ入れてないよー!」
 急いでつけたけど、当然しばらくは寒い。震えながらうどんをすすっているうちに、だんだんとあったまってきた。
「うう、寒い、寒い時に食べるうどんは最高……」
 そんなどうでもいいいことを言いながら食べ終わった鍋をこたつの上に置く。垂れてきた鼻水をティッシュで拭いて、一息。ちょっとだけ悩んで、洗いものは今することにした。後回しにした方が、つらい。
 震えながらなんとか洗い終えて時計を見る、七時前だ。こたつに入って、絵でも書こう。
 パソコンは机の上にあるけど、冬は寒くて最低限しか使ってない。その代わりに学校のパソコンで作業をして、暖房代が浮かないかなあ、なんて浅はかな考えで生活している。家のパソコンはいろいろくっついてて動かせないし、こたつで書くのはもっぱらアナログ絵だ。
 横に置いてるクロッキー帳と鉛筆を手に取って、イラストを書いていく。家用のこれは、メモ帳代わりに使っていて、なんとなくアイディアをまとめる用。本当のクロッキーには、別のやつを使っている。
 いつもやっているのは、練習みたいなもの。毎日なんとなく、目についたものや印象深かった出来事なんかをイラストとして書く、というのが日課だ。今日のお題は、真っ赤なケトル。毎日学校に行くときに前を通る店の、ショウウインドウに飾ってあったものだ。
 まず、どういうイラストにしようか構想するケトルの出てくる場面でもいいし、ケトル自体をキャラクター化するのでもいい。今日の気分は、ケトルの登場する……お店、もしくはキッチンなんかを書きたい気がする。例えば、カフェの一場面とか。
 でも、カフェでケトルなんか使うかな。うーん、小さい店なら使うかも。じゃあ、設定はカフェで決定。次は、そのカフェでのどんなシーンを描くかだ。やっぱり、お客さんが来て店員さんが何か沸かしている……そんなシーンを連想する。じゃあ、そこはどんなキッチン?
 ケトルが赤、ということは内装は……スタイリッシュというよりもあったかい感じかな。木? 木かも。カウンターキッチンは、木。そんな感じで、鉛筆を走らせる。
 店員さんは、どんな人だろうか。例えば、三十代くらいの女性? じゃあ、なんでこのカフェをやっているんだろう。オーナー、じゃあなさそうだ。例えば、ジャムを作ってる会社が、カフェもやっててそこで働いている社員、みたいな感じ。それならもっと若い気もする。
 そう思って、二十代後半くらいの女性ということで。長い髪をまとめて、ヘアバンドをした女性。うん、で、服装は赤いエプロン。いや、鉛筆だけどイメージは赤、ということ。ちょっとお洒落な形のものがいいかな。
 カウンターにはお客さんを座らせたい。こっちも女性のような気がするけど、どうだろう。ショートヘアの、ちょっとカジュアルでボーイッシュな人、かな。ボーダーのトップスに、スキニージーンズとか。靴はスニーカーで。
 あとは細かいところだけど、植物はあんまり似合わない気がする。大きなランプを一つ描き加えて、いったん全体を見てみる。……背景の壁紙、細かく模様描こうか、グラデーションみたいな感じで。そういう訳で、花を図案化したような線を書き込んでいく。ちょっとモリス風? みたいな。
「できた、かな。うん、できた」
 これが僕の日課、というか日記だ。日付とサインを入れて、完成。そこで時計を見ると、もう七時半になろうとしている。スマートフォンを握りしめ、画面を見つめた。もうちょっと!
 アプリが起動して、着信音が鳴る。かかってきた。焦らないように、と思いながら操作して、通話が始まった。
「もしもし、いっちゃん?」
 気持ちが抑えられず、声が上ずる。電話の相手は、向こう側で笑っていた。

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