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衣ほすてふ天の香具山【小説ノック2】

夕食後のひと時。

***

 夕食の後、台所で一息ついていると電話が鳴った。今時滅多にかかってこない固定電話は、ちょうど私の真後ろで間抜けな音を鳴らしている。
 よいしょ、と立ち上がり表示されている電話番号を見ると、実家からだった。携帯じゃなくてこっちにかけてくるということは、多分兄さんだろう。
「もしもし?」
《あー、千尋?》
 やはりそうだった。近所に住んでいるのに、わざわざ何の用だろう。
《今ちょっと良いか》
「いいけど、何」
《あのな、寿文くんの十年祭どうする? 今年だろ》
 その言葉を聞いて、どきりとした。そうだ、今年であの人が亡くなってもう十年になる。私は、そんなことも忘れていた。
「あ……」
《いや、いいんだ別に。十年もたてばそんなもんだ。お金も時間もかかるけど……まあ、十年一区切りとも言うし、考えといくれ。二か月前までなら都合つけられるから。じゃあな》
 兄さんはそれだけ言うと、電話を切った。まったく、身内に対して雑すぎじゃないの。氏子さんたちにはそんなことしないでしょうに。
 とはいえ、すっかり忘れていた式年祭の話をしてくれたのは、ありがたいことだ。命日は十月二日だから、八月までにはどうするか決めないと。といっても今は五月だから、それほど時間はない。
「そうねえ」
 さっきまで座っていた椅子に戻って、まだ温かいコーヒーをすする。実際のところ、式年祭をするとなると、それなりの金額は必要だろう。出席するのは、私と、ひかりに千寿留、あとは先生くらい。少ないけど、十年目なんてそんなものかしら。
 この十年――といっても娘が二人とも高校に入ってからは楽なものだったから、大変だったのは最初の五年。十三歳と九歳の二人を抱えて、そりゃあもう。ま、私の場合両親が近くに住んでいたから、そこまでの苦労はしなくて済んだ。
 家を建てるとき、あの人がわざわざ私の実家近くに土地を買ったのが、吉と出たというと変だろうか。本当のことを言うと、そんなところで吉を出さないで生きていて欲しかった、と思う。今でも、十年前と変わらない姿を夢に見るくらいには。
 手元のカップには、ぬるくなったコーヒーが半分。これはもちろんデカフェ。……そういえば、デカフェなんてものを教えてくれたのも、あの人だった。これなら好きな時間に飲めるよ、なんて言ってたな。あれは……一緒に暮らし始めて間もない頃だったはず。
 あの頃、私たちは築十年の安アパートに住んでいた。私は痩せぎすののっぽで、あの人は背が低くてぽっちゃり。それだけじゃない、あの人は陽気でよく笑い、人懐っこい性格。私はというと、無口で無表情で、愛想も悪い。なんで付き合ってるの? なんて、いろんな人からよく言われたものだ。
 ……なんと言うべきだろうか。私たちはあまりに違っていたけど、補い合うことができた。それだけの話なんだろうと思う。
 あの人と初めて出会ったのは、四十年以上も前になる。よく信じられないと言われるけど、本当のことだった。あの人は、私が通っていたバレエ教室の先生の息子で、しょっちゅう教室に遊びに来ていたのだ。でも、今になって思い返すと託児所替わりということだったのかもしれない。中学生くらいになると、姿が見えなくなっていたし。
 そんなあの人と親しくなったきっかけは、先生の引退パーティーだった。それももう……二十五年も前になるのだろうか? 時が経つのは、嘘みたいにはやい。
 そのパーティーで先に声をかけたのは、あの人だ。そう私が主張すると、あの人はいつも「君が先に声をかけてきたんじゃないか」と言うのだ。このことに関しては、どういうわけか結局折り合いがつかなかった。
 それから……それから、私たちは一年も経たないうちに結婚した。すぐに妊娠もして、産まれたのが長女のひかり。三年後には千寿留も産まれて、それから十年はありふれた幸せを謳歌していた。あの人は料理人で、私はバレエ教室の先生。二人して保育園と職場を行き来するような忙しい生活だったけど、人生で一番、輝いていた時期だったのかもしれない。
 あの頃は、倦怠期とか老後とか、そういうものが怖くて仕方なかった。いつかこの人とうまくいかなくなるんじゃないかなんて……そんなものは、結局来なかったのだけれど。
 コーヒーを飲み干し、立ち上がる。皿洗いをしたら、歯を磨いてお風呂に入ろう。と、階段を誰かが降りてくる音がする。誰か、といっても今この家にいるのは私とひかりだけ。千寿留は、いたりいなかったりして、本当に自由な子だった。
「どうかした?」
 ひかりの部屋は二階だ。というか、子ども部屋だったところをそのまま使っている。いい加減出て行ってほしいような気もするけれど、色々と助けられている面もある。それに本当のことを言うと、この家で一人で暮らすのは……あまりにも寂しい。
「ちょっと、のどが渇いただけ」
「ふうん。あ、そう、ひかり」
「何?」
 ひかりはシンクの前に立ち、水切りかごから取ったコップに水を入れている。冷蔵庫にはお茶もあるのに、そういうところが私とは似ていない。
「今度……お父さんの式年祭、やろうと思って」
「式年祭、って何だっけ」
「仏教の法事と同じよ。ほら、うち神道でしょ。前にやったのが三年祭だから、七年前ね。ひかり、まだ高校生だったから」
 そう、あの時は私もいっぱいいっぱいで、娘たちに話をするどころではなかったのだ。
「でも、ちゃんと話しておけばよかったかもしれないね。ごめんなさい」
「えっ、別に。……式年祭? っていつするの?」
「そうね、九月の末くらいかな。あ、でも土日はひかりも私も休めないものね。どうしようか」
 ひかりは飲食店で、私は今もバレエ教室で働いている。こういう時、客商売はややこしい。普通、こういうことは土日にやるというのに。
「二日でいいんじゃない?」
 シンクの前に突っ立ったまま、ひかりは水を飲んでいる。
「二日?」
「あれ、お父さんの命日、十月二日でしょ? その日に休んじゃえばいいんじゃない?」
「……そうね」
 ひかりは、こういう時に大胆な子だ。一見おっとりしているように見えて、結構ドライなところがある。休んじゃえば、なんて発想は私にはなかった。
「それに命日だって言えば、休みやすいでしょ」
「そうね」
「うん。じゃあ、もう上がるから」
「お休み」
「おやすみなさい」
 ひかりは、使ったコップをシンクの中に置いて行く。そういうところよね、と思った。

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