午前3時、202号室の団欒【2/5】
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「それくらい、フツウだって! ……わたしなんか、未だに隣の人の顔知らないもん。マンションに住んで、もう3年だよ?」
学生食堂で、友達の裕子が笑いながら言った。
彼女は地方から大学近辺のマンションに下宿しているので、ひとり暮らしの先輩だ。
「でも……なんかおかしくない? あたし、ボケちゃったのかなあ……」
できるだけ、なんでもない話をしているのを装うのが大変だった。
「てか、今どき自分のアパートにどんな人が住んでるか、ちゃんと把握してるほうがオカシイって。そりゃ、よっぽどいけてる男がいるとか、ヤバそうな奴がいるとかだったら別だけど……でも、あんたのアパートでは“ご近所付き合い”ってのがあるんだね。そういうのって、ちょっと羨ましいカンジするなあ……」
「え、べつに“ご近所付き合い”ってほどじゃないけど……」
実際、あたしが同じアパートに住んでいる人に関して関心を持ち出したのは、昨日からだ。
それまでは、そんなことはまったく気にせず暮らしてきた。
「逆に考えるとさ、あんたの住んでるあたり、治安がいいみたいだけど、やっぱ女のひとり暮らしじゃん? ご近所付き合いがあるほうが、なにかと安心だよ。困ったことがあったら、相談できる人が近くにいる、って結構安心だよ? わたし、田舎出身だからさ、こっちに越して来てから、つくづくそれ、実感するけど……まあ、ご近所付き合いがノーミツすぎるのも、結構ウザいけど」
裕子が屈託なく笑う。
「ウザいよね」
あたしは無理やり笑顔を作った。
「ウザいか安心か、そのトレードオフだよ……って、トレードオフって、使い方これで合ってたっけ?」
「合ってる。たぶん」
とりあえず、その場は笑ってすませることにした。
その日は大学からバイト先に直行したので、裏野ハイツに帰ったのは確か、9時ごろだったと思う。
敷地に入ると、鉄製の階段のところに小さな、丸い人影が見えた。
「ああ、もう……ホンマに……もう、かなわんわ……」
灰色のカーディガンを着た、70歳くらいのお婆さんだった。
背中が曲がっているせいで、身長は130センチくらいか、それよりもっと小さく見える。
階段を逆さに登り、車輪とハンドルがついた歩行補助器をなんとか引っ張り上げようと苦労していた。
考える前に、あたしはお婆さんに駆け寄っていた。
「大丈夫ですか? お手伝いします」
「え? あ、そんなん、悪いわ……いやいや、大丈夫ですさかいに……」
「あたしも二階なんです。これ、あたしが引き上げますから、どうぞお先に」
「ほんまに、ほんまにすんまへんなあ……若い人にこんなことさせて……ほんまにおおきになお姉ちゃん……ここに住んだはる人はほんまええ人ばっかりや」
お婆さんは、ゆっくり、ゆっくりと階段を登っていく。
あたしは後ろ向きに歩行補助器をかたん、かたんと引き上げていった。
それはとても軽かったけど……この小さくて腰が曲がったおばあさんにしてみれば、毎日これを上まで引き上げるのは大変だったことだろう。
「いつも大変でしょう?」
「いやいや…………ほんまにおおきになあ……ところでお姉ちゃん、203の学生さんやろ?」
「おばあさんは……202号室の?」
そこで、ふと昨夜の声とすき焼きの香りを思い出した。
「いや、ちゃいま。あては201だす……202は、ずっと空いとるしな」
「え、で、でも昨夜……」
ちょうど階段の中ほどまできて、おばあさんに振り向こうとした時だった。
「あのー……大丈夫ですか?」
いつのまにか、階段の下にスーツを着た50歳くらいの男性が立っていた。
ええと……この人は?
「ああ、どうもこんばんはだす。いやほんま、このお姉ちゃんが親切に手伝うてくれはってなあ……有難いことで……」
「そうですか。たいへんでしょう……僕もお手伝いします」
そういって男性が階段を登り、歩行補助器の車輪を持ち上げた。
「あ、ありがとうございます……」
あたしは男性の顔を見た。
白髪で眼鏡を掛け、とても上品な感じがする人だ。
あたしの顔を見上げて、にっこりと微笑む。
「さ、そのまま、上まで運びましょう……気をつけて」
おばあさん、あたし、歩行補助器、その男性の順で、なんとか2階の廊下にたどり着いた。
「ほんまにえらいすみまへんなあ……お姉ちゃんも、お兄ちゃんも……」
おばあさんはそう言うと、ほんとうにわたしと男性に手を合わせる。
「ははは、"お姉ちゃん、お兄ちゃん”て、僕みたいなジジイを、この可愛いお嬢さんと一緒にしたら可哀想ですよ」
男性が愛想よく笑う。
わたしは釣られて笑いながら、ちらりと男性の仕立てのいい紺のスーツの襟についている社章を見た。
誰もが知っている家電メーカーの社章だった。
こういうと失礼だけど……とてもこんな寂れたアパートに住んでいる人には見えない。
……というか、ほんとうにこの人は裏野アパートの住人なんだろうか?
はじめて会ったような気がする。
「じゃあ、これで……困ったことがあったらいつでも言ってください」
そう言い残して、男性は若々しい足取りで階段を駆け下りていった。
「はああ……ほんまにありがたいことです。おおきに」
「あの人は?……」
あたしがおばあさんにさっきの男性のことをしようとしたとき、1階のほうから声がした。
「ただいまー……いやごめんごめん、遅くなっちゃって……」
バタン。
ドアが閉まる音。
「あの人な、あての真下に住んだはる人や」
「ということは……101号に?」
おばあさんが、声を潜めて言う。
「せや。たしか、えらい若い奥さんと一緒に暮らしたはるみたいやで……お姉ちゃんと変わらんくらいの、若い女の子と」
「へ、へえ……」
あたしと同じくらいの歳? ……ちょっとだけ引いた。
「まあ親切で上品なお人やからなあ……お姉ちゃんも、そういう男を見つけるんやで……あ、ごめんごめん、余計なお世話やな……」
「い、いえそんな……」
おばあさんは皺だらけの顔に、満面の笑顔を浮かべている。
そういえば、このおばあさんに会ったことはあったっけ?
いや、話をするのは今夜が初めてだ。
「そや……お姉ちゃん、ご飯は食べはった? よかったら、うっとこで一緒に食べへん? ……あんまり美味しいいもんは出されへんけど……」
おばあさんが愛想よく言った。
ふつうなら、もちろんそんな申し出を遠慮なしに受け入れたりしない。
でも……おばあさんはこのアパートに詳しそうだ。
あたしは、おばあさんの申し出を受け入れていた。
■
おばあさんの部屋は、とてもきれいに整理整頓されていた。
部屋の間取りは、あたしの部屋とまったく同じ。
ダイニングキッチンの奥は、6畳の洋室。
おばあさんはそこに、布団を敷いて寝ているようだ。
「ほんま、ろくなもん用意できへんけどかんにんな……」
そう言いながら、おばあさんは丁寧に鯖の切り身を焼いてくれた。
あと、お味噌汁の匂い。そして、煮物の匂い。ご飯が炊ける匂い。
あたしはキッチンのテーブルに座って待っていた。
手伝います、といったけど、おばあさんに断られ、じっと待っているしかなかった。
それにしても不思議で、奇妙な気分だった……自分の部屋とまったく同じ風景のなかで、まったく違う生活が営まれているなんて。
当たり前のことかもしれないけれど、その時は妙にそれが気にかかった。
テーブルに、二人分の食事が並ぶ。
(あっ……家庭料理だ……)
大根おろしが添えられた鯖の塩焼きと、葱ととうふのお味噌汁。
大皿に載った里芋とれんこんとニンジンとこんにゃく、ちくわ……という具の筑前煮。
そして、炊きたてのご飯。
「さあさあ、食べとくれやす……ほんま、年寄り臭いもんでごめんやで……」
「そんな……とても美味しそうです。いただきます」
あたしは損得勘定もお世辞もなにもなく、普通にそう言った。
一人暮ぐらしを始めてから、遠ざかっていた家庭料理だった。
いや、実家で暮らしていたときよりも、それは家庭料理っぽかった。
「……おいしそうに食べてくらはるなあ……お姉ちゃんの歳やったら、洋食のほうがうれしいんとちゃうか?」
「そんなことないです……とてもおいしいです」
ふつうに箸が進んだ。
おばあさんはニコニコ笑いながら正面に座り、あたしが食べるのをうれしそうに見ている。
「お姉ちゃん、確か……半年ほど前からここに来はったんやっけな?」
「あ、はい……今年の頭くらいからです。今日までご挨拶もせず、申し訳ありませんでした……お隣なのに」
「かまへんかまへん……いまどきの子やのにほんま律儀やな……それにお隣、っちゅうても一つ飛ばしてのお隣やないの」
「そう……ですね……」
そういえばそうだ。
確か、さっきおばあさんが階段で言っていた。
202号室は空き家だということを。
でも、あたしは昨夜、すき焼きの匂いを嗅いだ。
隣からは、すき焼きを囲む大人数の人々の声を聞いた。
「おばあさんは……このアパートに住まれて長いんですか?」
「そうやなあ……もう20年になるかいなあ……長い、ちゅうたら長いな。まだ、あんたが赤ちゃんくらいやった頃からになるからなあ」
20年。確かに。
あたしの人生とほぼ変わらない。
あたしはおばあさんの夕食の誘いに応じたことの、目的を思い出した。
「さっきの男の人……あの、親切な方なんですけど、あの方はこのお部屋の下の101号室に住んでらっしゃるんですよね?」
「せやで。あの人は……たぶん2~3年前に越してきはったんとちゃうかな……若いお嬢さんと暮らし始めたのは、最近みたいやけど」
さすが、おばあさんはよく知っている。
「そのお隣……102号に住んでらっしゃっるのは……男性ですよね?」
「ああ……あそこの人のことは、あんまりよう知らんけどなあ……なんか、仕事したはらへんみたいで、あんまり外出もしはれへんし……」
あたしが昨夜、コンビニで見かけたのは、その男だ。
でも彼は……前に見た時は確か……
「あの……あそこに住んでらっしゃる人って、どんな見掛けの人ですか? 昨日、ちょっと見かけたんですけど……30歳くらいの、背の高い人?」
「せやったかいなあ? ……あてからしたら、30歳も40歳もようわからんわな……みんな“若い人”で、あてよりは“背の高い人”やし……あはは」
確かにそうなのかもしれない。
おばあさんは笑う。あたしも笑う。
でも、違和感は消えない。
「じゃあ、その隣……あたしの部屋の真下は、3人のご家族ですよね?」
「そうそう、若いきれいなお母さんと、お父さんと、3つくらいの男の子な。ほんまに、仲良さそうなええ家族やわ……」
……おばあさんのご家族は? ……と聞こうとして、やめた。
こんな寂れたアパートで、このご高齢で一人暮らしをしているわけだし。
わざわざこっちから聞くようなことではない。
むしろ、あたしが聞きたいのは、103号室のお父さんのことだった。
「その……あそこのお父さんって……ヒゲを生やした、がっちりした体型の人でしたっけ……」
「ああ、そういうたらそうかもな。前はヒゲ生やしたはれへんかったと思うけど……最近生やしはじめはったかもな。この前ひさびさに見かけたとき、ほんま、誰かと思ってびっくりしたわ……かなんわもう……あははは」
いや、“誰かと思ってびっくりした”どころではない。
わたしの認識では、あの部屋の“お父さん”はまるで違う人になっている。
とはいえ……それをどうおばあさんに伝えていいか、わからなかった。
やはり、あたしの認識を疑うべきなのだろうか?
気がつけば、食事は終わっていた。
「……ごちそうさまでした。ほんとうにありがとうございます。すっかり厚かましくごちそうになっちゃって……」
「あほなこと言いなないな……ありがとうございます、って言いたいのはあてのほうやわ……お姉ちゃんのおかげで、ほんまに久しぶりに楽しい晩ごはんやったわ……また、ちょいちょいでええから誘うてええかな」
おばあさんの笑顔には屈託がない。
その裏に、寂しさの影のようなものが見えた。
「もちろん……でもそんなにしょっちゅうお邪魔しちゃ……」
「ええねんええねん。あんたが迷惑やなかったらな……あんた、どんなご飯が好きや? ライスカレーがええか? それともすき焼きか?」
「……すき焼き……」
ぴく、と心が勝手に反応する。
ただの献立のひとつなのに。
「うちの孫、あてが作るすき焼きが大好きでなあ……関西風の味付けがええらしいんやわ……あの子も、今頃はお姉ちゃんくらいの歳になってんのかなあ」
と、おばあさんが立ち上がり、戸棚から写真を一枚取り出した。
かなり古い写真のようだ。
あたしはおばあさんの手から、写真を受け取る。
どこかの公園で撮られた写真で、緑を背景に3歳くらいの男の子が写っていた。
おかっぱ頭で、緑色のTシャツにベージュのハーフパンツ姿の男の子。
写真を見ると、日付が入っていた……1999:08:06
「あ、ホントかわいい~………………えっ?」
「なんや? どないかしたんか?」
「あ……ええと、いえ、知ってる男の子に、とてもよく似ていたもんで……」
「へえ、あんたの弟さんとか?」
「ええ、い、いやあの……」
おばあさんが屈託のない笑顔で、あたしの顔を見つめている。
とても言い出せなかった。
この写真に写っている男の子は……103号室のタカユキ君とそっくりだなんて。
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