【官能時代小説】手 籠 め 侍 【6/12】
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その少年と老婆の助太刀に入った浪人は、なかなかの凄腕だった。
風の強い月夜、沿道の高い草原が、ざあ、と音を立てて戦慄く。
人気のない一本道で、百十郎とその浪人が向かい合っていた。
さすがの百十郎も、今宵ばかりは最初から刀の柄に指を掛けている。
たるんだ無精ひげだらけの顔に、今、あの若気た笑みはなかった。
「……拝神武流か……抜かずともわかる。おぬしに相応しい卑しい流派よ」
完璧な間合いをつめながら、名も名乗らぬその浪人が言った。
螺子の軋みのような声だ。
草色の小袖に灰色の袴。
体格は小柄で痩身。
かなり窶れ、髪には白いもの目立つが、その眼光は鷹を思わせた。
その浪人も鞘をにぎり、鐔に親指を掛けているが、鎺はまだ覗かせていない。
「そういうおめえは、どこのへっぽこ流だ? ……田舎侍は、口だけが達者だな。そんな婆あとガキに命を掛けてまで肩入れたあ、酔狂なこった手……」
百十郎の口調は相変わらずだが、その声にも目つきにも、緊張が見られる。
「あの老婆と少年から聞かされたわ……お主の畜生にももとる所業……」
名乗らず、流派も明かさぬその浪人は、背後の老婆と少年を庇うように立っている。
老婆はもう八十に手が届こうかという風情。
痩せて、立っているのがやっとという様子だ。
少年の年の頃は、慎之介とさして変わらぬくらいか、それよりも幼いくらい。
頬が赤く、あどけない顔をしている。
前髪が初々しい。
二人とも白装束に白鉢巻姿で、帯刀していた。
老婆は小太刀、少年は打刀。
その眼に怯えはあるが、百十郎を睨む目はそれぞれ怒りに満ちていた。
「悪いが、方々で人の恨みを買って廻るのが俺の道楽でよ……その婆あと餓鬼には、見覚えはねえけどな……」
「よくもそんな!」 老婆が声をあげた。「八年前、お前にに討たれた岸田一之介と、そなたに穢されて谷底に突き落とされた妻、八重のことを、忘れたと申すか!」
「……岸田一之介と八重? ……言っちゃあなんだけど……覚えとけ、ってほうが無理なありふれた名前じゃねえか……殺した男も、穢した女も、谷底に突き落とした奴も、数え切れねえ……いちいち覚えてられるかよ」
軽口を叩きながらも、百十郎は対する浪人の挙動から目を離さない。
「……噂に違わぬ犬畜生よ……お主に明日の夜明けを拝む資格はないわ。地獄で閻魔にどう申し開くか、用意をしておけ」
浪人が間合いを詰める……が、詰め過ぎるということはない。
じり、と百十郎が草鞋を前に滑らせる。
「ふん、おめえも所詮は俺と同じよ……一体、何人斬ってきた? 犬畜生ってところでは、俺もおめえも団栗の背比べよ……」
「……むかし、お主のような外道の輩を手にかけたことがある……しかし、拙者はそいつを殺さなかった」
名乗らぬ浪人は一瞬、口元に笑みを浮かべた……ように見えた。
「……へえ、そりゃまたどうして?」
「あの世の地獄も手ぬるい輩だったからよ……拙者はそいつの両の眼を、鋒で抉ってやった」
「ほう?」
ぴくり、と百十郎の頬が引つった……ように見えた。
先程の浪人の笑みと同じ、微かな動きだ。
「……生き地獄のほうが相応しい輩も居る……お主もその手合いのようだな。何れにせよ、お主に明日の朝日は拝めぬわ」
「てえした外道だよ、おめえさんも……」
ほど近いところに楡の樹があった。
風に煽られさんざめく葉は、闇の中で真っ黒に見える。
紫乃はその樹の高く太い枝の上で、葉が作る闇に隠れながら、二人の侍の挙動を見守っていた。
(……どうしてもわからぬ……なぜ見えなかったのだろう?)
百十郎に辱められ恥をかかされ、一太刀も浴びせることができず、当て身で倒されてから三日。
紫乃は百十郎をずっと尾け、二十五里ほど旅をしてきた。
その間、何度も何度も同じことを考えた。
(山の野原で……あの若武者と奴が斬り合ったとき、実はわたしにも刀筋が見えなかった……)
はじめて蜂屋百十郎の手業を見た、あの真昼の凄惨な仇討ちのことだ。
弟の慎之介も、見えなかった、と言っていた。
その場では慎之介に「だからそなたは駄目なのじゃ」と見栄を切ってみせた紫乃だったが……
実は紫乃にも見えてはいなかったのだ。
(有り得ぬ……いくら早業とはいえ、あれは人間業とは思えぬ……)
くるりと回って相手の懐に飛び込み、切り抜けるのが拝神武流の太刀筋。
その早業こそが胆の剣術だということはわかっているのだが……それにしてもあの男の早業は只事ではない。
と、何の前触れもなく、名を名乗らぬ浪人が先に動いた。
(あの浪人も……なんという早業!)
抜く手はほとんど見えなかった。
ただ、びゅん、と白刃が闇を駆け抜ける。
百十郎はくるりと身を翻すと、猫のように躯を丸め、浪人の腋の下をくぐり抜けた。
風が止む。
紫乃は目を凝らした。
浪人は刀を袈裟懸けに振り下ろした状態で、凝固していた。
その背後で、百十郎が背を向けている。
(……ど、どっちが……何方が?)
見たところ、百十郎の刀は、やはり鞘に収まっている。
それを紫乃が見届けた瞬間、名乗らぬ浪人の身体から滝のような鮮血が吹き出した。
闇の中、血飛沫は漆黒に見える。
いったい、一人の人間の身体の中にこれほどまでの血潮が、と思うほど、大量の血が吹き出す。
……ふたたび騒ぎ出した風にその飛沫が、霧のように煽られていく。
体中の血を吹き出しても、結局最後まで名を名乗らなかった浪人は手折れなかった。
打刀を上段から振り下ろした姿勢のまま、蝋のように固まっている。
魂を失った鷹のような目線が、百十郎の通り抜けた自らの腋の下を見ていた。
吹き出す血も収まりかけた頃、百十郎が悠々と振り向く。
「地獄で会おうぜ……そのときに、改めて名前を聞かせてくれよ」
立ったまま骸となった浪人の背中に、そう声を掛ける。
あの邪な笑みと若気た笑みが、もう戻っていた。
「きええええええええええい!」
奇声をあげて、老婆が小太刀を振り上げ、上段のまま百十郎に走り寄る。
振り下ろされる刃を軽く交わし、老婆の背中をどすん、と蹴る百十郎。
あっけなく老婆は前のめりに手折れた。
百十郎は草鞋の足を高く上げると、老婆の首筋あたりを強く踏みつける。
ぐきり、という鈍い音が、樹の枝に身を隠す紫乃にも届いてきた。
暫し、風の音だけが響く。
風に撫ぜられ荒れ狂うのは道端の草むらだけ。
老婆はまったく動かなくなった。
(……ま、まさに鬼……あの男は紛うことなき鬼畜生!)
樹の枝についた葉のなかに身を潜めながら、紫乃はぶるっ、と背筋を震わせた。
闇夜に目をやるに、老婆の後ろに控えていたまだ年端もいかぬ十一、二歳の少年が、刀の柄を握りながら立ちすくんでいる。
遠目にも、その少年の膝ががくがくと震えているのが見えた。
百十郎が、その少年に向かって歩を進める。
少年は、退くことさえできず、その場に根を生やしたようにその場に固まっていた。
もはや、目の前の男に斬捨てられること以外の道を、自ら封じてしまったかのように。
少年の感じている恐怖は、紫乃にも痛いほど伝わってきた。
というよりも寧ろ、その名も知らぬ少年の恐怖を通じて、紫乃は生まれて初めての生々しい恐怖を感じている。
「坊主、抜けよ……俺は、おめえの親父とお袋の仇なんだろ? 俺は、いま、婆あの仇にもなったぜ……」
「…………よ、寄るなっ……」
一歩、百十郎が歩を詰めると、少年は三歩下がった。
「よし、じゃあこうしようぜ」
百十郎は打刀と脇差を、するりと帯から抜き取る……そしてそのまま、がしゃりと音を立てて放り出した。
「な……」少年が震える声で言った「……何を?」
「討てよ。おれは今、丸腰だ。一度、てめえみたいな餓鬼に斬られてみてえ……おめえがどこまでやれるか、この躯で試してみてえ……運がよければ、俺を殺れるぜ」
少年がおぼつかない仕草で、震える手で、刀を抜き、上段に構える。
「……か、か、覚悟……」
少年の肘は、わなわなと震えていた。
刃が頭の上でかたかたと音を立てて踊っている。
あれではとても、人を斬るなど適わない……と紫乃が思ったときだった。
「お嬢ちゃーーーん? そこに隠れてるんだろ?」
百十郎は紫乃が身を隠す楡の木に、背を向けて立っている。
しかし、木の上の紫乃はびくりと背筋を凍らせた。
「やべえぜえ……はやくしねえとやべえぜえ……仇の仇が、この餓鬼に討られちまうぜえ……?」
「くっ!」
即座に紫乃は、樹から飛び降りた。
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樹から飛び降りた紫乃は、自分が何をしようとしているのか、三割わからなかった。
鞘を左手に、柄をしっかと握り締め、袴をたなびかせ、韋駄天のごとく走る。
刀を上段に構えたまま立ち尽くしている少年に向けて、無心に駆け抜けていく。
立ったまま死んでいる名無しの浪人の亡骸を、首を折られて地面に這っている老婆の亡骸の脇を、脇目も振らず走り抜ける。
百十郎の脇をすりぬけたとき、目前に迫った少年は、まるで“斬ってください”とばかりにその胴を晒していた。
抜くと同時に、びゅんと風を切りながら刀を水平位置まで振り切る。
立てた足刀で砂利を、ざ、と踏みしめて、少年の右斜め後ろで自らの躯を停めた。
「わあああっ!」
がちゃり、と少年が刀を取り落とす音がする。
紫乃はちらりと自分の握る刃を見た。
狙いどおり、刃に血糊はない。
ちら、と小袖の肩ごしに振り返った。
少年の帯がはらりと落ち、袴がすべり落ちる。
白い褌に締められた小さなまるい尻がむき出しになった。
やはり巧くいった……。
やがて、その褌もはらりと下に落ち、少年の下半身を隠すもの全てが、その足元に落ちた。
「わあっ!」
下半身を晒された恐怖からか、羞恥からか、少年武者がその場にしゃがみ込む。
「いやっはっはっは!」
百十郎がさも楽しそうに笑った。
紫乃は踵を返すと、すばやく少年の前に回り込んだ。
あどけなく、少女のような顔が涙に濡れていた。
弟の慎之介に似ている、と紫乃は思った。
いや、その少年は慎之介そのものだったのかもしれない。
「……どうした! 刀を取らぬのかっ! 放り出した自らの刀を!」
紫乃が刃の鋒を、ぴたりと少年の首筋に定める。
「……お、お、お許しを……どうか命ばかりはお許しをっ……」
背後から百十郎の声がした。
「殺せ……殺っちまえ。ひと思いに」
ちらりと横目で百十郎の姿を確認する。
百十郎もまだ、刀を投げ出したまだま。
(……今なら討てる……あと三歩素早く引き下がり、あの男の喉笛を……)
しかし、それを悟られてはならない。
少年が鳴き声で言った。
「……ど、ど、ど……どなたか存じませんが、どうか命だけは……ご……後生です。わたしはもう、父上や母上の敵などどうでもいいのですっ……」
紫乃は思わず少年に向き直り、目を剥く。
「お主、いま何とっ……?」
「わたしは……物心ついたから、ずっとあの婆 あに仇討ちだのなんだのと引き摺り回されて……もう疲れました…………ふ、ふつうに、ただふつうに生きたいのです……どうかお許しを……」
萎みきり、毛も疎らな赤子のようなものを揺らしながら、少年が紫乃に手を合わせる。
「殺せねえのか? そんな餓鬼、見てるだけで苛つくだろう? ……殺っちまえ」
少年はその場に這い蹲り、紫乃の草鞋にすがりついた。
「ど……どうか! どうかお慈悲をっ! ……死にたくありません! わたしは死にたくないのです!」
軽蔑と怒りが、柴乃の心に昏い火を灯す。
(……慎之介……そなたもこの少年と同じか? ……わたしは、あの老婆と同じなのか……?)
百十郎がじり、と動いた。
紫乃は少年の足元に転がっていた少年の刀を道の脇の草むらに蹴り払うと、中段で百十郎に向き直った。
「寄るなっ! ……寄らば斬るっ!」
汚い反っ歯を見せて、にやりと笑う百十郎。
「そんな餓鬼ひとり殺せねえで、俺が殺れるかよ? ……どうすんだ、その餓鬼?」
百十郎から視線を外さず、柴乃は絞り出すように言った。
「……この若侍の右腕を落とす……二度と刀を握れぬように……」
這いつくばっていた少年が顔を上げて泣き叫ぶ
「そ、そんな!……余りでございますっ……!」
近寄ってくる百十郎に備え、柄を握り込む紫乃。
少年には顔を向けず、一喝した。
「ええい! 命ばかりは助けてやると言うておるのだっ! 右手一本くらいは覚悟せい!」
「お、お許しをっ……どうかお許しを……」
じりじりと丸腰のまま歩を進める百十郎。
若気けてはいるが、その目はめまぐるしく紫乃の鋒、左右の両肩、両膝の動きを改めていた。
丸腰だが、まるで隙は見られない。
「死ぬのも厭、右手をとられるのも厭……じゃあ坊主、てめえ、この場の落とし前をどうつけるつもりだ?」
さも可笑しそうに言う百十郎。
「な、なんでもっ……なんでもいたしますっ……ど、どうか、どうか命だけはっ……」
にやり、と笑った百十郎が紫乃の目を見る。
「なんでもします、だとよ……おい、お嬢ちゃん、おめえに任せるぜ……この餓鬼を嬲ってやんな……」
「な、なんと?」
紫乃の声が思わず上擦った。
「……死にたくねえから、腕を斬られたくねえから、何でもする、ってその小僧がいってんだ。こいつを生かすも殺すも煮て食うも、おめえのお望みどおり、ってわけよ……おい、お嬢ちゃん。おめえは……俺を討ちてえんだろ? そうじゃなかったか?」
ざっ……と一歩引き、突きの姿勢で顔の横に水平に刃を構える紫乃。
「あたり前よ!」
「でも、今のお嬢ちゃんじゃとても俺には敵わねえ。お嬢ちゃんはまだご立派すぎらあ……俺のところまで、堕ちてくる覚悟はあんのか?」
堕ちる? 一体、なんの話をしているのだこの男は……。
「……お侍様!」
突然、紫乃の後ろで這いつくばっていた少年が起き上がり、紫乃の脇をすり抜けて百十郎に駆け寄った。
呆気にとられる紫乃。
少年は前を開かれた小袖一枚の、ほとんど素裸だ。
「なんだよ? なんだってんだよこのくそ餓鬼?」
へらへらと笑う百十郎。
「お情けをっ……何卒お情けをっ……なんでも、なんでもいたしますからお慈悲をっ!」
「まったく、仕様がねえなあ……」
そういうと、百十郎は自らの帯を解き、袴の前紐を緩め始めた。
そして、泣きはらし、足元に這う少年の前で、悠々と褌をも解く。
すでに、黒々と激っているあの忌まわしい魔羅が、ぬ、と月明かりの下に顔を出す。
刀を構えながらも、思わず紫乃は目を閉じ、顔を背けてしまう。
「……おい、小僧……ほら、この餓鬼……顔を上げるんだよ」
そういって少年の髷を乱暴に攫むと、ぐい、と自らの魔羅を仰がせる百十郎。
「……な、なにをっ……?」
少年は自分がどのような目に遭おうとしているのか、まるで理解していない様子だ。
百十郎が少年の髷を掴んだまま、自らの股間に押し付ける。
「……ほれ、わかるだろう? 舐めるんだよ……その可愛い口で……咥え込んで武者震りつくんだよ……まさかおめえ、尺八も知らねえのか?」
「そ、そんなっ……で、できませぬっ! そ、そのようなことっ……あうっ!」
少年が厭がって頭を振ろうとするが、百十郎が前髪を掴んで逃がさない。
百十郎は口を開こうとしない少年の鼻をつまみ、息を詰め、口を開かせた。
そして、その赤く染まった頬を、己の毛むくじゃらの股間に押し付ける。
「ほれ、歯、立てんじゃねえぞ……舌で舐り、転がすんだ」
「むっ……ぐっ……うっ……うううっ……」
悪逆無道を極めるその行い。
(……ひ、非道な……まさにあやつは犬にももとる鬼畜生……)
その酷い有様を眺めながら眉を歪ませていた紫乃だったが、ふと、心がぐらりと揺れる。
ほんのついさっき……自分はあの年端もいかぬ少年の腕を切り落とそうとしていたではないか。
「おっ……そうだそうだ……はっはっは、おい坊主、お前、なかなか巧えじゃねえか……」
観念したのか……少年は百十郎に|月代を撫でられながら、自ら頭を動かしていた。
「んっ……ふっ……んんんっ……んんっ……」
時おり、息苦しそうな少年の鼻息が紫乃まで届いてくる。
「おいおいお嬢ちゃん、この餓鬼、ほんとに悦んで武者震ってるぜ! そこいらの玄人女よりも、丹念で思いが篭ってて、こりゃたまんねえや……なあ嬢ちゃん、おめえもそんな物騒なもんは仕舞って、こっちに来いよ!」
そういって、百十郎が手招きする。
悍ましい……そう思いながらも……
なぜか、じり、と地面を踏みしめる柴乃の草鞋が、百十郎の手招きに吸い寄せられるように、前に滑った。
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