11/16(土)17(日)温泉にて/我々はストーリーを創作してものを見ている
両親と共に温泉宿に来ている。
父が半年前、抗がん剤中に予約した。
あのころは「本当に行けるんだろうか」と当事者の父をはじめ母も私もみんな半信半疑だったけれど、今日来れてよかった。
父は午前中仕事をして、温泉までの1時間半運転もしてきた。
天気はあいにくの雨だが、木々が紅葉が見頃なのが唯一の慰め。もみじはまだ赤く染まり切っておらず、一本の木で緑、黄色、赤と3色のグラデーションをなしている。見事な色合いに目が奪われる。
小雨の中、傘を差して庭を歩き、その後お風呂に入り、夕飯の時間までのんびり過ごした。夕飯は全部完食できた。念の為持ってきたタッパーも必要なかった。でもアルコールはもちろん無し。
ノンアルコールビールとジンジャーエールで我慢だ。父の食前酒は私が飲みました。半年ぶりのお酒でお腹がカーッと熱くなった。私は飲めるけど、もともとお酒が好きな方ではないから飲まないなら飲まないで済んでしまう。実に経済的な体質なのだ。
温泉宿は何もすることが無いのが良い。何かしなければいけない世界から逃避できる。今日は観光しに来たのではなく、温泉に浸かりにきた。
温泉はぼんやりしたりお風呂に入ったりするくらいしかやることがないのが良い。
当初、母は父が大浴場でお風呂に入るのを嫌がった。不特定多数の人と接することになるし、手術の傷口が術後一月以上経っているとはいえ心配だったからだ。今回の部屋は露天風呂付きだから、大浴場に行かずとも温泉には入れる。
でも、温泉好きの父の不満そうな顔を見たからか最終的に母はOKを出した。たぶん父の心残りにならないようにしたのだと思う。「行かせてあげようね」と、父が大浴場に出かけて行った後、母は私に言った。
母の表情をみていると、なんとなく悲しそうな感じもする。みんなでこうしてここに泊まりに来れるのがこれが最後になるかも知れない可能性だってあるのだ。
でも、それは私の思い込みかもしれない。
目の前の景色は、自分のつくるストーリーでいかようにも捉えられる。
母は悲しいなんて思っておらず、来られてよかったとただ胸を撫で下ろしているだけかもしれない。
夜、部屋の露天風呂に入ってみた。そこから見えたのは暗闇だった。目を凝らすと山や木々のシルエットがぼんやりと浮かび上がってきた。
昼間には気が付かなかったが、正面の山の中腹には道路があり、車のテールライトが時折ヒーローの変身ベルトみたいにピカピカッと光って消えていく。奥の丸い山はこちらの様子を伺う怪物の頭に見えてきてだんだん怖くなってくる。父は子供の頃に家の近くの山がパカっと割れて中から怪獣が出てきたらどうしようと夜考えて眠れなかったというが、それが冗談とも思えない。本当にこちらに向かってドシンドシンとやってくるんじゃないかという気がする。
暗闇には、人にあらぬ想像を掻き立てさせる魔力があるみたいだ。
黒は黒でも夜空の黒が一番明るい。星はなく、月も見えない。おそらく空全体に雲がかかっているのだろう。うっすら牛乳を混ぜたような柔らかい黒に安心感を覚える。
朝、同じく部屋の露天風呂に入って景色を眺めてみる。
黒一色だった世界は、緑、赤、茶色、白・・・数え切れないほどの色に埋め尽くされており、闇の気配はこれっぽっちもなかった。暗闇は元からそこに無かったかのように消えていた。
ちゃんと夜が終わり、朝が来ていた。