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緋色の月が浮かぶまで(10)

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 日か高い内に帰ってきた我は一人で手水舎の前で桜を見上げていた。
「む、戻っていたか」
「どこにおったのだ? 社の中にはおらんかったが」
 雷蔵の手にはいつくかの巻物。それに今までに見た事の無い、青い飾り布がついた衣を纏っている。
 浅尾の正装という事じゃろうな……
「なに、罪請けの下準備をな……何があったのだ。まだ日は高いと言うのに」
「そろそろと踏んでおったのじゃな。おぬしは」
「時期が来たか」
 珍しく表情を崩す雷蔵に我はなるべく何時も通りを心掛け返事を返した。
「うむ。緋月は、社の中に籠っておる。自らの死期を察しておきながら楽しもうとするのは辛かったのじゃろう。今は十がついておる」
「そうか」
 呟き、雷蔵ら岩に腰を降ろした。見れば巻物の下には畳まれた巫女服。
「彩花様に此方で働いて貰おうと思っていたが……」
「共に居る時間は後僅かじゃからな……じゃが、ここに置いておくのもよかろう」
「無論そのつもりだ。思い付いたのが少々遅いと言うことだ。実際、昨日の時点で話しは通しておる」
 自分に悪態をついておったか。このような雷蔵を見るのは初めてじゃな。
「次郎、お前も緋月樣の側に居てやれ。準備は私が全てやっておく」
「うむ、そうさせてもらうかの」
 少し息を吸い、我は緋月の元に向かう。
 寝室の戸に手をかけた時、中から声。
 弱々しく、聞き取るのに苦労する声じゃ……緋月かえ?
「十、ごめんね。つきあわせちゃって。少し、落ち着いたから……離れてもいいよ」
 動いた気配はせぬな。我は戸の前に腰を降ろし、中の話を聞く。
 悪いと思うが、こうでもしないも本音はきけぬ。
「私は……恐い、です。儀式がどう転ぶかわからないから……こんな顔、次郎に見せられないです……」
 声が酷く震えておる。強い恐怖のせいじゃろうか。
 それとも……
「次郎、そこに、おりますね」
 見透かされてもうたか。
「入ってもよいか?」
「はい……」
 戸を開ける。毛布に包まった緋月が我を見上げておる。
 十がするりと我の横を通りすぎ、何処かに走って行った。戸を閉めた我は緋月の正面に腰を降ろし、その顔を見つめる。
 ひどい顔じゃ。涙の痕と不安そうな表情。
「寒いのかえ? 緋月」
「うん。寒いし、怖い」
「ちこうよれ」
 返事は無いが緋月は我の胸に飛び込んでくる。
 うむ、確かにお主は冷たいの、緋月や。
「怖い、じゃったな」
「うん」
「我もじゃ。緋月がおらぬ明日が来ることが……恐ろしくて敵わん。じゃが、おぬしが決めたことじゃ、我が何かを申す権利などありはせぬ」
「解っています。私も、次郎と離れるのが恐ろしいのです。だから……」
 そこまで言って緋月は言葉を飲み込む。
 こやつ、あの湖での交流の時に「方法がある」と申していたな。
 何をするかは知らぬが、それが良くない事だとは直感で解っておる。じゃがそれを止める事等……できはしないのだろうな我は。
 ならば今は……緋月の傍に居てやることが我にできる事なのじゃろう。鬼というあやかしを持ってしてもそれだけしか出来ぬとは……少しばかり残念じゃ。
「次郎、今は傍にいてください」
「無論、じゃ」
 我の胸で震える緋月に対して、何もすることはできなかった。
 あの後、日が落ち始める頃まで二人はそのままじゃった。
 気付けば穏やかな寝息を立て始めていた緋月を置いて。
 我は屋根に上るいつもとは違い泉の方へと出向いておった。
 酒の入った瓢箪片手に、石積の隣へ腰を降ろす。
 青々とした月が地を照らし、緩やかな水面がその光を受けて仄かに輝いて見えよる。
「ここにいたか」
 片手を木にかけながら雷蔵が声をかけてきた。
 左手には葉がいくらか残った枝を持ちいつも被っている帽子は胸に仕舞っておるようじゃ。
「隣に座るぞ」
 石積を一瞥しあやつは腰を降ろす。
「相も変わらず美しい物よ」
「湖か?」
「然様」
 湖が美しいと言いながらも、奴は枝で地に絵を描く。狐の絵、短時間で描いたとは思えぬ完成度じゃ。
 見事な物だと我が褒めると「気晴らしに描く事がおおいからな」と言い、疲れた顔で笑う。
「実はな、緋月様が積み受けの儀をするという知らせが来るのはわかっていたのだ」
 そうじゃろうとは思っておったわ。じゃが、それがどうしたと言うものじゃ。
 我は空を見上げる。少し欠けた青々とした月が変わらず昇っておる。
「私の式神、あの犬は前々から緋月様の死期を悟って極端に姿を隠すようになっていた。死を見たく無いのだろうな。昔から緋月様の傍にいたのだから」
「それはお前さんも同じじゃろうて」
「フフッ……そうでもあるな。あの犬の行動は私の本心かもしれぬな」
 我は泉の方に歩みを進めた。冷たい水が、膝元を濡らす。
「我は、この月が忌まわしく思えてくるわ」
 雷蔵は、一言も発せずに悲しそうな目をして我を見守るだけであった。

つづく


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