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オチが付けらんねえ

 エッセイを書く上で一番難しいのはオチの付け方だと思う。

 小説は別にいい。主人公が問題を抱えていて、それが解決して、最後にその心象に相応しい描写が入ったらいいのだから、大したことはない。最後のオチよりもどう解決するのかのほうが余程難しい。
 感想文などの主張することが決まっている文章も別にいい。最後にもう一度結論を書けば取り敢えずの格好は付く。本当はエッセイもそのようにして書くべきなのかもしれないのだが、私は『すてきなあなたに』のような思い出話をするみたいなエッセイが好きなのだ。
 そうして、今も他の記事のオチが付けられなくて現実逃避しているのである。困ったことである。

 よくよく考えたら、私は普通に喋っている時にもよくオチを見失う。というか、オチが付かなくてはいけないという感覚が培われていないのかもしれない。だってそもそも会話は物語ではないのだ。
 職場の愚痴などの気が滅入るような話を驚くほど面白おかしくオチまで付けて話せる人が時々いるが、ああいった人々の頭の中では一連の記憶が思い出というよりはストーリーになって整頓されているのだろう。起承転結。因果。そういう人と出会うと、私はとても感心する。自己に対してかなり客観的な態度を取らなければそんなことは出来ないと思うからだ。自分のことをいち登場人物のように俯瞰して見ていないと、聞いているこっちが笑ってよいと思えるほどからっとした調子にはならない。悲しみとか苦しみが滲んでしまうから。

 私は自己に対してかなり主観的な態度を取っていると思う。
 というか、肉体がある以上、主観的でいるしかないと思うのでそうすることにした、というのが正確なところだ。私は私の目でこの世を見るしかないし、私の耳で相手の声を聴くしかない。『私がどう感じたか』が世界の形の大前提なのだ。これは別に私だけのことではなくて、恐らく生物はみなそうだろう。そのことをどれくらい意識しているか、そしてどれくらい主観的な自分に主導権を持たせているか、という差異があるだけである。

 私が高校生だった時、クラスメイトが一人、学校に来なくなったことがあった。私は特に親しくなかったので詳しいことは解らないのだが、どうやら病気を患って入院したらしかった。その内また出てくるからよろしく、と担任の教師は淡々と説明した。
 それから暫く経って、用事があって部活を途中で抜けて帰ろうとした日のことだった。校門前にその生徒がしゃがみ込んでいた。保護者らしい人が隣に立っていておろおろしていた。私は話しかけるか迷ったが、彼らの周囲の空気がずんと重かったので、結局素通りした。彼も私には気が付かなかったようだ。
 彼らとすれ違って、すぐ近くのバス停のベンチに座るまでの間、私は彼が殆ど悲鳴といった調子でこう言うのを聞いた。
「こんなに長く休んだんだよ。みんなに嫌われてるに決まってる。行きたくない!」
 休んだ期間が長いことと周囲からどう思われているかということの間には因果関係はないと私は思うが、彼の中ではそうではなかったのだ。だから校門の前まで来はしたものの一歩足を踏み出して中へ入ることができない。みんなが私と同じ意見だったとしても、それは彼には全く認識されていないのだ!
 私にとっては衝撃的な体験だった。大丈夫だって、そんなん関係ないって、と言いに行こうか迷ったが、余計なお世話もいい所だろうし、決断する前にバスが来たので乗り込んでしまった。流れる景色を眺めながら、私たちは同じ空の下に立っているように見えて、実のところ全く違う地平を見ているんだなあと思った。

 そういうどう足掻いても主観的な人生を生きざるを得ない体を持ちながら、自分を俯瞰して見ようとすることは、自己を含めた人類に対する明るい諦観なのだろう。
 チャップリンは『人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ』と言ったという。今この瞬間に湧き上がる感情が自分だけのものであること。感情のうねりがどんなに底なしに見えても、それはやがて薄れて消えていくこと。その一連の流れが最終的には次の展開の伏線でしかないということ。それらが解ってもなお感情は消えないこと。それなのに、どうあれみな例外なく死ぬこと。そういう重力のように私たちに満遍なく働いている力をよしとした時、『ロングショット』で自分を見ることが可能になるのではないだろうか。
 そうして自分の人生の『クローズアップで見れば悲劇』の部分を、苦しみも悲しみも滲ませずに面白おかしく話すことが出来るようになる、のかもしれない。

 あの時のクラスメイトはどうだろうか。彼がもうぐっと大人になっていて、校門の前で泣きべそをかいたことが笑い話の一つになっていたらいいだろうな、と思う。
 私はまだ修行中なので、彼の背中を思い出すとまだちょっと胸がきゅっとする。その上、この記事のオチも結局考えつかないのである。

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