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転石苔むさず/群れと記憶

英語教師が黒板に諺を書く。

A rolling stone gathers no moss.

転石苔むさずって言葉、ありますよね。

根無草のように漂っていては、何事においても成功しない。地面に根を張って、腰を据えて、何事にも取り組むべきだ、という諺ですよね。

でも、これはイギリスの解釈であって、アメリカでは全く逆の意味になるんです。

一つところに留まっていては、苔がびっしりと生えてしまう。苔を蒸さないように、転石になれ、つまり動き回っていなさい、ということなのです。


この教師の授業を受けたのは、もう5年ほど前の話だが、ローリングストーンの諺の話はよく覚えている。

私も、ローリングストーンになりたい。
一つのところに留まるのは、私の性格には合わないようだ。

今思えば、この話の典拠はどこにあるのか、実例を見てみないとなんとも言えない話である。

安易に比較文化論を論じることは、ステレオタイプの形成につながる。


この話は、イギリス/アメリカの比較文化論に落とし込むよりも、卑近な例で考えた方がいいかもしれない。

一箇所に腰を据えるのを良しとする人もいれば、いくつもの場所をめぐることを良しとする人もいる。

別にこれはイギリスとアメリカの二項対立に留まらない話である。

諺・石の上にも3年 のアンチなので、基本的に固定シフトのバイトは合わないし、短期バイトの方が好き。

どこかの組織に身を固めるよりも、自由に動き回っていたい。

とは思うんだけど、安定を求める気持ちはなくならない。

社会人になったら、苔がむしちゃってむしちゃって仕方ないかもしれない。

ここからは、転石とは関係のないゾーンです。

好きなものは苔。
苔ガール全盛期に中学生だったので、理科の教科書のゼニゴケに魅了されて、校舎の北側の日陰に生えていたコケを探し回っていた。

一時期は針葉樹よりも苔が好きだった。
駐輪場で友だちと屯していた時も、苔が目に入ってた。
苔。苔。苔。

「苔かわいい」「コケコッコ〜」と次から次へと戯言が止まらない。苔。苔。苔コッコー。

北側の校舎は、いつもじめっとしていて、冷たくて、空気が澱んでいた。砂利に紛れ込んだ雑草と苔。
かっこよかった。
魍魎跋扈の教室に比べてみれば、なんと平和な世界だったのだろう。

北の校舎の一階の、夏でも冷たい空気の中で、たったひとり佇みたかった。でも、群れの中に入ることを強制された。今思えば、蒸し暑かったし、むさ苦しかった。

群れ。

梨木香歩氏のエッセイでは、群れという言葉が反復される。群の中に入ること、群れの外に出ること。群れの中心に入ること。群れの周縁にひっそりいること。群れに溶け込むこと。群れと個。

学校で人気の目標は、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」だった。当時は、今ほどラグビーが流行っていなかったのに。
学級目標を立てるとき、必ず候補に挙がった。

確かに、群れで生活する上での訓言である。しかも、なんかかっこいい。最高。1組の学級目標、これしかないじゃんね!うん、そうだよ。時には英語になったりもする。One for all, all for one.  

ために、って重い感情だと思う。
あなたのためだと思って…の嘆きは悲劇の始まり。

私の存在意義が、集団に収斂されるのが恐ろしすぎる。
私は、私。決して、みんなのためになんて存在していない。

みんなも、個人であってほしい。個と個が溶け合って、境目が見えなくならないように。雪国のように、道沿いに矢印を設けてほしい。雪で隠れているけれど、ここに境界がありますよ、と。決して過干渉しないように。超えてはいけないラインを越えないように。

境と境で区切られた世の中は疎外を表す。時には越境が必要。ステレオタイプで分断された世の中を俯瞰する目線を失ってはいけない。

でも、個と個が混ざり合って、わたしをわたしたらしめる境界を越えないでほしい。時には境界を越えるけど、私は私。決して「みんな」なんて箱に押し付けないでほしい。なんならこれは自戒。押し付けない。自分は自分だから。

初めて記憶を飛ばした。
断片的な記憶はあるのに、連続していない。
飲んでも飲まれるな…。

はじめて、私は「信頼できぬ語り手」になってしまった。

いやいや、そもそも人間は誰しもが信頼できぬ語り手である。芥川龍之介の『藪の中』のごとく。数多の語り手は、記憶という「語り」の不確実性をデフォルメする。芥川龍之介が反復していたのは、この語りの不確実性、そして多層性である。

カズオイシグロのThe unconsoledも、その話である。
カフカの『城』を思わせるような、堂々巡りの話。
語り手を信用することはできない。
イシグロ作品では、しばしばこの手法が採られる。

記憶と語りは嘘をつく。

正体見たり、枯れ尾花。
正体を見なければ、枯れ尾花ではなく幽霊である。
たぶん、人間の記憶ってこうやって歪まれていくんだろうな、そもそも真実なんて存在しないから、歪みなんてないんだけど。

千鳥足の酔っ払いの語りなんて、信頼できないし、
その後の記憶もない。

…覚えていなくても日常生活は再開する。

なかったことにする、なんて甘えだ!とかっての私は憤っていた。でも、意図的になかったことにすることは可能である、と気づいてしまった。

なぜなら記憶に絶対なんてないので、なんでもよいのよ。記憶は無限大。語りも無限大。現実も無限大。矮小なのは、私の理性(笑)だけ。

理性ばかりが働く生活、窮屈。それは、偏見だらけ。
ステレオタイプの圧に負けるな。

たまには、自分から離れてもいいものだ。
(もちろん、この意味での「離れる」は羽目を外すのではなく、マインドフルネスとかで「今起こっていること」にフォーカスを当てることでの「自我との分離」である)

…自分の意識っで厄介で、自分から自分に不幸にしてしまうこともある。
自ら不幸にならないで、ってカネコアヤノも言ってた。
ニュートラルに、何かをジャッジをすることなく、慎ましく生きたい。

との自戒を込めて。

やっぱり、そういう意味でヨガっていいんだろうな〜
あと運動とか楽器の演奏とかも。

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