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わたしの正義

大学に入って驚かされたのが「正義」がいかに相対的なものであるか、ということだ。

高校時代まで「右ならえ右」の世界で生きてきたものだから、私にとってのパラダイムシフトであった。

この事実は、精神的支柱を失うようで怖かった。
というのも、私は所属していたコミュニティ、すなわち高校における「正義」にどっぷり浸かっていたから。

ほんとうの水平線が存在しないように、ほんとうの正義なんてないのかもしれない。
暫時的な、正義。

もちろん、私がマイケル・サンデルのように体系的に理論立てて正義について述べることはできない。

でも、ここではわたしの、ごくごく個人的な「正義」について話していきたい。


発掘された合宿のしおり

ことの発端は、高校時代のプリントを発掘したことだった。

それは、高3時の学習合宿についての案内であった。

その頃、私は既に18歳だったし、選挙権も持っていた。

だが。

そこに書かれていたのは軍隊のような、夥しい数の規則だった。

日程よりも、禁止事項の方が事細かに記載されている。

「家族との連絡以外の目的でのスマホの使用禁止」 
「雑誌、漫画類は持参しないこと」
「音楽プレイヤー、あるいはイヤホン、ヘッドホンなどの持ち込み禁止」
「化粧類の持ち込み禁止」

とまぁ細かく規定されているのである。

さらに、合宿では謎の班体制が組まれていた。

班の中で、名簿順が早い人が「班長」に任命され、「先生と連携し、隊班員の行動を管理する」という任務を負うことになっていた。

ただし、しおり上では、の話。
実際は、点呼を取るくらいの役割しか果たしてなかった。気がする。

これらの記述を改めて見た時、私は心底驚いた。

18歳だよ?この生徒たちは。

事実、この一年後に私は大学生になり、見ず知らずの街にひとりで乗り込み、親と離れていた。

もちろん、学習合宿なのだから、スマホに没頭する時間なんてないのだろうし、漫画を持ち込む必要もないだろう。

先生はある意味、生徒の命に対して責任を負っているので、ルールなしに野放しにしておくわけにはいかない。
その意味では班体制は必要だろう。

私が問題にしているのは、そこではない。

なぜ、17、18にもなる生徒に向かって、そこまで仔細な指示をするのか。

大学に入れば、もちろん大人はあれやこれやと指示しない。
自分で考えていかなければならない世界に入ることになる。

大学に入る前(現役浪人にかかわらず)、の高校3年生にそんな細かい指示をしてどうする?と思う。

これが顕著な例だが、私の高校はひどくお節介であった。

素直が美徳とは限らない

仮に私が母校で講演を依頼されたとしたら、声を大にして訴えたいのが、「素直が美徳とは限らない」ということである。

私の高校はとにかく規則が多かった。

前提として、私の高校は典型的な地方都市の一隅にある女子高であることを伝えておきたい。

女子高といえば、私立のお嬢様学校というとんでもないステレオタイプが往々にして想起されるようだが、私の高校は全くそんな高校ではなかった。そもそも公立だし。

学校のレベルは、めちゃくちゃ上というわけではないけど、通っていれば親族に褒められる程度のところだった。

生徒は全体的に真面目な人が多い。規則で縛り付ける必要は、全くない。

でも。

コートの色、ピンの色、ヘアゴムの色が全て指定され、違反すれば先生のお叱りを受けてしまう。

水色のコートを着ていた子が、担任の先生に怒鳴られた光景は今でも鮮明に覚えている。

水色は、規則の外の色だった。

でも、「なぜ水色がだめなのか」という説明はなかった。

また、スカートを少しでも短くすれば「置換や盗撮の被害に遭ってしまうよ」という理由で怒られる高校だった。

暗に「痴漢あるいはミニスカートを履いているのが悪い」と訴える主張である。

これは5年以内の話である。

露出の多い服を着ていた被害者の方が悪い、なんて主張は今や時代遅れであるし、その当時もそうであったはずだ。

確かに、女子高ということもあってホームルームでは毎週と言って良いほど、不審者情報の通達がなされていたので、先生は気をもんでいたと思う。

だから注意喚起をするのは先生の責任であったから、スカートの丈について支持するのは真っ当なことだ、とも捉えられる。

いや、でもスカートを短くする生徒も、ちょっと上に上げる程度の調整をしていただけであったから、そこまで怒る必要はなかったはずである。

よく先生は言っていた。

「あなたのためだから」
「私の言うことに従えば、確実に良い点数が取れるはず」


そう、先生の言うことに従えば、成功や幸せが約束されているというような語り口で、私たちを巧妙に支配していたのである。

「素直な子は成績がいい」
「塾なんか行かないで、教師の言うことに従えさえすれば志望大学に受かれるんだから」

みたいなことを延々と語る先生のことを信じ込んで、「素直が美徳」だと思い込んでいる生徒は多かったはずだ。

私もそのうちの一人だった。

規則のほとんどを守り、先生の言うことに従っていたから。

受験に関してのことは従わなかったけれど。

(後述します)


素直なことはある意味で美徳。
でも、権力を持つ側に都合よく使われてしまうのも「素直さ」である。

大学入学後に素直の危うさを知ったけれど、高校時代に知っておくべきだったと思う。

だって、高校後の進路選択という大きなライブイベントが高校によって支配されるの、嫌じゃない?

私の正義は、徹底的な自己肯定にある

いきなり自己啓発チックな見出しが出てきて、辟易した人がいればごめんなさい。

別に私はライフコーチでもないし、自己啓発方法を広める力もないので、青汁のCMパターンではないことを断っておきます。

高校生の頃、私はとある大学を目指して頑張っていた。

そんな時に、担任の先生には「あなたなら○○大学に行けるはず。もっと上を目指すといい」と言われた。

私のことを思って言ってくれるならば、それはありがたいアドバイスとして受け止めたのだが、そうではなかった。

その大学は、私の高校から滅多に進学者が出ない、最難関大学だった。

正直、私の手の届く大学ではなかった。

在学時、進路実績が振るわなかった時期だったので、先生はとても必死だった。

難関大学への進学者をたくさん出そう。
模試での平均偏差値を上げよう。
 
というような具合で。

明らかに、生徒たちは数値化されていた。

だって、私が振るわない成績だったときは見向きもしなかったくせに、急に成績が伸びた途端に手のひらを返したように手厚いサポートをしてくれたから。

そういうわけで、初めて私は先生にささやなか抵抗をしたのであった。

「いや、私の行きたい大学に行きます」と、宣言した。


なぜ、先生の願望によって進路選択が左右されなければいけないのか。

私の願望は、私によって作られるのが1番健全、というのに。

でも、当時はやっぱり悩んでしまった。

本当に後悔が残らない選択?と。

でも、そんなの人の心配であって、私の心配ではない。

だから、選択をするときは私が、1番ぴんとくるものを選んだ方がいい、と学んだ。

結果、私は満足のいく選択ができたのだが……

私の成功談を全体に敷衍する、というプロパガンダの常套手段はもちろん使いたくないので、これは私の個人的な体験であることを断っておく。

あくまで私の正義なのだから、すごく脆くて揺らいでしまうものである。

でも、刷り込まれた素直さで、人に左右されてしまうなんて勿体ないな、と思う。

あなたはあなたの人生だから。

なんて言えば無責任に響くけど、究極なところ死ぬ時は1人なので、まずは自分の気持ちを徹底分解して、他者の主張がどれほど内面化されているのか、覗くことが大切だと思う。

まずは言葉にしよう。
noteでもなんでもいい……


と書いているのだが、語り掛けてる相手は不特定の読者と言うよりは、私自身である。

今もなお、揺らぎやすい私はある意味で従順だから。
でもこの正義はが根底にある。

高校時代の思い出から上手く抜け出して、そしてこれからの人生を歩んでいこうと思う。





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