泊まれる演劇という世界の優しさについて〜『Moonlit Academy』を振り返りつつ
3月に参加した泊まれる演劇『Moonlit Academy』のことを主に構造や演出の面から振り返りつつ、泊まれる演劇という世界の優しさに改めて感謝するnoteです。
※終演後、公式にネタバレは全解禁されていますが、今後の作品でも使われるかもしれない演出についても一部触れていますのでご注意ください。
「今回の作品のノリには、もしかしたら着いていけないのではないか」
『Moonlit Academy』を最速抽選で予約したあと、徐々に作品の情報が出てくる中で抱いていたのは、正直なところこういう不安だった。
前作の『雨の花束』が自分には刺さりに刺さりすぎたため、その作品の雰囲気とのギャップを感じた、ということもあるかもしれない。
前々作の、今回と同じHOTEL SHE, OSAKAを舞台にした作品に参加した際に、うまく物語に入り込めなかった経験も影響していたかもしれない。
とにかくせっかく参加できるからにはもし自分には合わなかったとしても最大限前向きに楽しもう、誠に失礼な話だけれどそのような心構えで大阪へ向かった。
しかし、そんな勝手な不安は容易く裏切られた。今回もやはり濃密で贅沢で魔法のような、心に残る一夜になった。
泊まれる演劇という世界は本当にすごい。作品や物語を超えて、改めてそう思わされた。参加直後のツイート。
誰一人として置き去りにしない
会場の中を観客が自由に動き回り、その中で同時多発的にパフォーマンスが行われて物語が進行してゆくイマーシブシアターの形式は、しばしば「自由回遊型」と呼ばれる。(自分は回遊という言葉が「回遊魚」以外で使われるのをここで初めて聞いた。)
泊まれる演劇も、基本的にはこの自由回遊型で物語が進行する。その舞台は実にホテル一棟分。1階から3階まで、時に屋上までもが舞台となる。
自由回遊型のイマーシブシアター、特に泊まれる演劇のように空間が広く自由度の高いイマーシブシアターでは、自分がどこを回遊するか、どのように行動するかによって、得られる体験が大きく変わってくる。
誰もが異なる景色を見て、誰もが異なる物語を紡ぐ。それがイマーシブシアターの大きな魅力の一つだと自分は考えている。
でも、これは捉えようによってはリスクでもある。
「うまく」行動できなかったら。
タイミングが合わずに「大事な場面」を見逃し続けてしまったら。
遠慮しているうちに、躊躇っているうちに、世界から取り残されてしまったら。
世界と関わりを持ってこそ没入感が強まるのだとしたら、それがうまくできなかった時には一気に没入が覚めてしまう。
「ああ、自分は今うまく行動できていない…」「他の人たちは自然に楽しそうに振る舞っているのに…」「いつの間に、どうしてそういうことになってるの…?」と不安や焦りがメタ思考になって心が冷めていくような経験を、自分もしたことがある。
もちろんすべてを理解する必要がないのがイマーシブシアターではあるけれど、やっぱり知りたいことが知れないのは悲しいし、ある程度自分で情報を集めないと物語の骨組みも満足に理解できないような作品の場合、何が何だかわからないまま終わってしまうということもあり得る。かと言って何度もリピートするなどということはmoneyとtimeを余程豊かに持っていないと難しい。
そもそもこういうイマーシブシアター的なものにはじめて参加する人の場合、自由に行動していいよと言われたって「どうすればいいやらわからない」というのがごく自然な反応だと思う。
最近の泊まれる演劇は、この部分をすごく意識して丁寧に、サカナ繋がりで言えば丁寧ていね丁寧に設計されているように感じる。
物語はあくまで自然に進めながら、それぞれの行動によって異なる体験は尊重しながら、それでもさりげないところで「置き去りにしない」ためのケアがなされている。
ホテルのロビーという場所
たとえば自由時間中に一旦ゲスト全員がロビーに集合するタイミングがある。場合によっては複数回ある。
この段階では、それまでにたくさん行動したり他のゲストと情報交換したりして物語のかなり深くまで到達している人もいれば、初めてでよくわからないままにホテル内を彷徨っていた、そもそも会話に参加できていない、そういう人もいると思う。
そんな中で、ゲストと同じようにロビーに集まった登場人物たちは一旦情報の整理をする。わざとらしさはなく、物語の流れで自然に。
すでに知っている情報が共有されたゲストは「そうそう、そうみたいなんですよ!」と頷き、知らない情報が共有されたゲストは「えー!?」と驚く。どちらも楽しい。それぞれの反応があり、それぞれの昂まりがある。「そんなのもう知ってるよ」というような冷めた感覚も、「わけがわからない」というような置き去りの感覚も、どちらも極めて生じにくい進行になっていた。
キャストが演じるそれぞれの登場人物も、その時点で知り得ている情報と知らない情報がある。だから、「そうそう!」と「えー!?」がある。それぞれの反応があり、それぞれの昂まりがある。登場人物とゲストが同じ目線で昂まりを共有する。
そうして全員を巻き込みながら、物語は次の展開へと向かっていく。バランスがとても心地良い。
今回、自分も自由時間中にうまく部屋に入れない時間帯が続き、その間に集まって何やら展開を進めている他のゲストたちの姿やいつのまにか出現していた部屋や人物やアイテムを目にして、(その必要はないのに)「取り残されている」感覚を少し味わった。
でも全員集合の時間帯があったことで、すぐに「追い付く」ことができた。それ以降はまた世界に没入することができた。とてもありがたかった。
公式な集合がかからない時間帯でも、登場人物に着いていくと一旦自然にロビーに集まるような時間帯があったりもする。
今回は登場人物の吹さんが自ら申し出て、ロビーで情報を集約する役割を担う、という構造になっていた。みんな自然と、定期的にロビーに集まる形になる。
また、自分がたまたま出くわしたもので言えば、ライカさんに着いて行った場合、琥珀さんの部屋の鍵を開けてもらうようコンシェルジュに頼むタイミングでロビーが使われる。そして琥珀さんの部屋であるアイテムを見つけると、「一旦ロビーに持って行ってゆっくり見よう」ということになった。その後そのキーアイテムはずっとロビーに置かれ、後から来た人でも自由に見ることができるようになっていた。
人も情報も、ロビーをハブにして行き交っていた。迷ってもとりあえずロビーに行けば何かが起こっている。
「ホテルのロビー」というパブリックな場所の持つ性質を存分に生かした設計で、優しくて美しいなあと思った。
「誘導ありグループ行動」
自由時間中にゲストがいくつかのグループに分けられ(これも物語の流れとして自然に)、それぞれの登場人物に誘導されたり役割を与えられたりする、「誘導ありグループ行動」も、ここ2作ほどで増えたシステムであるように思う。
今回は特に、
・自らの意志で選択するグループ分け
・寮や部屋などの割振りで自動的に決まるグループ分け
・運などその他の要因による細かいグループ分け
が重層的に組み合わさってゲスト一人一人の体験の分岐を生み出していた。その配合がまた絶妙。
「グループ行動埋め込み型自由回遊」とも言うべきこのシステムは、長く続く自由回遊の中で置いて行かれてしまうゲストが生まれるリスクをできる限り減らしてくれる仕掛けであるように感じた。
だからと言って自由回遊の時間が相対的に減ることによる物足りなさは、個人的には感じなかった。
むしろ自由回遊にメリハリがついて良かったし、今回の作風的にも、ゲストと登場人物、ゲスト同士の一体感がさらに高まったり、重要な局面で取り残される人がいなかったりと、とても効果的に機能していたように思った。
グループ分け要素の一つとして「受ける授業を自らの選択で決める」というものがあったが、そこで各々学んだ経験が伏線のように後から効いてくる、という構成も物凄く良かった。
参加したゲスト一人一人に、別々のタイミングで「それは私も知っている!」「そうつながってくるのか!」と思える瞬間が何度も訪れたのではないかと思う。
その感動は、誰一人として置き去りにしない。
ソロ参加者も置き去りにしない
前作の感想でもけっこう書いた、ソロ参加者への対応も変わらず優しかった。
上で書いたような「置いて行かれる」リスクは、特に一人で参加する時に大きい。一度冷めていった心を奮い立たせて、情報を得るために見知らぬ人に話しかけるのには想像以上に大きなエネルギーが要ったりする。
日帰りで行ける公演ならまだしも、「宿泊」を伴い「一緒に宿泊するくらいには関係の近い」連れ合い同士で参加するスタイルも多い泊まれる演劇では、なおさらである。
上に書いたような全員集合しての情報共有やグループ行動のしくみは、バリバリ行動する人、初参加の人、躊躇いがちな人、周りの様子を見ながら行動する人、どんなタイプのソロ参加の人々にも「大丈夫、みんなでやろう」と呼びかけて巻き込んでくれているように思えた。
別に作り手としては、こうじゃない道も全然あり得ると思う。
ソロ参加か否かを問わず、一人一人が自由に動いて、自由に会話して、得られたものが一人一人の物語なんです。だからそこに干渉はしません。
そういうふうに自由行動の数時間を丸ごとゲストに委ねるということも全然選べる。第一、一人で参加することだってあなた自身で選んだんでしょう。Sleep No Moreのような現場では「甘ったれるな」と言われてしまうのかもしれない(行ったことないけど)。
でも泊まれる演劇は、そうではない道を選んでいる(ように自分には見えた)。
これこそは、後述する泊まれる演劇の根幹をなすホスピタリティ精神の一つの表れなのではないかと思う。
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こういう雰囲気は、チェックイン直後から終演後まで、一貫して受け取ることができる。
泊まれる演劇では、いわゆる開場(チェックイン)からいわゆる開演(参加者全員の集合)までの間に時間があって、その間ロビーで飲み物を飲んだり自由に会話したりすることができる。
自分は今回も一人で、チェックインが早く済んだので、かなり早い段階で部屋から出て来て、創立100周年の記念カクテル(おいしい)を購入して一人座っていた。カクテルをちびちび飲みながら、ロビーの装飾を綺麗だなあと眺める。
すると、ほどなくして一人の小柄な女性が話しかけてきた。その人の正体はのちに判明するが、その会話の中でもらった言葉が、たった一人の自分とこの世界との間に秘密の繋がりが生まれたみたいでとてもとても嬉しかった。嬉しくてカクテルをぐいっと一飲みした。長いようで短かったその夜はずっと、彼女のその言葉に支えられていたような気がする。
その後も登場人物たちがやってきて、次々に話しかけてくれる。ゲスト同士が近くに座っていると、急に距離を近づけすぎず、でもそれぞれを包み込んだ形で会話してくれる。未だ本名の自分のままに座っていた人たちは、このあたりから物語の世界の中にグッと引き込まれる。それをきっかけとして、ゲスト同士でも会話が生まれ始める。
今作では、寮分けや、自分で選ぶことのできる「授業」についての話題が、誰とでも共有しやすいトピックとして設定されていた。「レッドムーンなんですね、同じです!」「どの授業を受けるか決めました?」のように、そうした話題をとっかかりに会話を始めやすい。
物語のはじめから誰かが孤立してしまうことのないように、むしろ世界に入り込んでいけるように、ノリこそ軽いけど緻密に繊細に、作り込まれていた。
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いわゆる「終演」後に設けられているロビーでの歓談の時間(自由参加)も、同じように優しさに溢れていた。
今回は他のゲストとの相席OKですよという意思表示ができる「相席OK札」が導入されていた。
過去の参加を経て、この時間中は絶対に他のゲストと話した方が楽しいとわかっていた自分は、劇中の演出で一口食べて美味しかった「ドラゴンドッグ」を買いそして相席OK札を恐る恐る手に取った。
そうしたら登場人物の一人、まんが先輩がすかさず例の軽いノリで、同じように相席OK札を立てている方々のテーブルに案内してくれた。
相席OK札を立てたところで果たして実際に相席する流れになるのか、相席OKのテーブルに自分から座るのはなかなかにハードルが高いが……、と恐れ慄いていた自分にとって、誰と話してもいい立食パーティースタイルが饅頭よりもこわい自分にとって、まんが先輩の存在と行動は涙が出るほどありがたかった。
その後初対面の相席者お二人とはたくさんお話しして、とっても楽しい余韻の時間を過ごすことができた。
他のゲストとのエピソード、と言えば、奇跡的な再会もあった。
前作『雨と花束』の開場時間中にたまたまロビーで近くに座ってお話しし、物語に関わるある衝撃の秘密を興奮とともに共有することになった方と、今作でも偶然再会したのである。
約9ヶ月ぶり、あの梅雨の日の晩餐会以外では会うこともなければお名前も知らなかったその人を、Moonlit Academyのロビーで見かけた時には心臓が跳ねた。ひどく懐かしく、昔から知っている人のような気がした。向こうも覚えていてくれて、少し話して、また名前も連絡先も聞かずに別れた。
たまたま出会った誰かと束の間の時間を共有して、またそれぞれの生活に戻っていく。
花岡さんが泊まれる演劇で実現したいと話していた、旅という営みを通して生まれる価値、「予定不調和な出会い」の尊さのようなものを改めて強く感じた偶然だった。
話が逸れてしまったけれど、きっと裏側では様々に試行錯誤を重ねられて、あの優しい世界ーー誰一人として置き去りにしない、だけれども誰もが自分だけの大切な物語を持ち帰ることのできる世界ーーが設計され、演出され、実現されているのだとつくづく感じる。
では、何がそうした世界を支えているのか。
ホスピタリティカルチャー
すでに書いたような様々な要素だけでなく、泊まれる演劇に参加すると至る所で「ホスピタリティ」というものをひしひしと感じる。
チケット発売から終演後まで、非常に細かい部分も含めて、ゲスト一人一人の体験の最高値を叩き出すためにすべての関係者が同じ方向を向いて然るべくかつ妥協なく準備してくれている、というような、そういう感じ。
ホスピタリティ、と言葉では簡単に表せてしまうけれども、それはたしかに血の通った贈り物であると思う。それは定量化することができない。3万円支払いました、その対価としてこれを受け取りました、というような淡々とした価値交換ではない。受け取るにしても、「ええ、たしかに。ホスピタリティですね」ではなく「〜〜〜〜ッ!!ホスピタリティ〜〜〜〜〜〜っ……!!!!」(ピチピチ跳ね回るホスピタリティを手のひらに乗せながら)である。
何を言っているのかわからなくなってきたが、それくらいには動的で熱い贈り物であって、受け取る側としてこれほど有難いことはない。
そしてそういうふうに感じられるということは、作品の中身以前に、これはもう何らかの確固たる理念というか哲学があるに違いない。それが関係者一同、隅から隅までずずずいーっと共有されているに違いない。
と思っていたところ、泊まれる演劇を運営する株式会社水星のnoteで、まさにその源泉にも少しだけ触れる記事が公開された。
元々はHOTEL SHE, のスタッフとして働かれていた花岡さんが、ホテルの持つ価値「物語が生まれる場所」という側面をもっと伝えるために選んだ手段が演劇でありイマーシブシアターであった、という泊まれる演劇の誕生経緯を読み、すごく腑に落ちた。イマーシブシアターは手段だったのだ。出発点は「ホテル」であり「旅」なのだ。
そしてHOTEL SHE, が組織として持つ「ホスピタリティカルチャー」が泊まれる演劇の制作陣、スタッフにもそのまま共有され、下地になっている。
それが様々な形で発露したものを、自分は受け取っていたんだなあと思った。
演劇として作品を作り見せることではなく、お客さんの物語を見つめ支えるホテルが出発点だからこそ、あの熱いホスピタリティがあるのだ。
部屋に戻ってから眠りにつくまでの間のこと
我々ゲストが作品内外からどんな温かいものを受け取っているか、を示すさらなる例として、今作の「終演」後、部屋に戻ってからの体験が自分的ハイライトのひとつだったので書いておきたい。
ゲストノート
(これまで自分が見落としていたわけでなければ)今回の作品から、部屋には「ゲストノート」が置かれていた。【←追記:前からあったそうです。なぜ見落としていた……】
ゲストハウスやホステルでは時々見られるあのゲストノート。
自分の思い出を書き残したり、他の誰かが書き残した思い出を覗かせてもらったりすることができるノート。このノートがめちゃくちゃに良かった。
相席札で相席したお二人とおやすみを言って別れ部屋に戻ると、今しがた体験してきた時間の濃厚さに興奮覚めやらぬまま、ベッドに腰を下ろしてノートを手に取った。
ホテルの部屋って、自分が泊まるために入室する時には必ずすべてがリセットされていますよね。ベッドは皺なく綺麗にふくらんでいるし、新しいタオルは丁寧に畳まれ、風呂場には水滴の一つもなく、もちろんゴミ箱は空で、前の晩に泊まっていた誰かのことなんか微塵も感じさせない。感じさせないようにしなければならない。
だから部屋の中にゲストノートという「異物」が置かれているだけで、なんだかとてもワクワクした。唯一リセットされずに残された物。いくつもの夜を越えて、知らない誰かの手を渡り歩いてきたノート。
ワクワクしながら開いてみると、自分が参加したのは公演期間の後半だったこともあり、ノートにはすでにたくさんの書き込みがあった。同じシングルルームに一人で泊まった人たちの書き込みが。
たくさん。それは文字通りたくさんだった。
様々な筆跡の文字たちが、各ページを埋め尽くしていた。
ゲストノートって、せいぜいが一人数行ずつメッセージや思い出を書き、次の人は少しスペースを空けてその下に続けていくようなイメージを持っていた。でもここのゲストノートは違う。一人でまるまる1ページ、見開き2ページをびっしり埋めている人も何人もいる。
全部の文にビックリマークがついていて、文と文がほとんど繋がっていなくて、興奮が伝わってくる文章。細かい端正な字で自分が体験したことを時系列でびっしり書き綴った文章。寄り添った登場人物に宛てられた、語りかけるような文章。「どうか幸せで」。未来のこの部屋の宿泊者に宛てられたメッセージ。「みなさんも楽しんでください!!」。年配の方と思われる、短くも上品な筆跡。「仕事がなかなか終わらなくて、開演ギリギリに滑り込みました…!」。可愛らしいイラスト。初めての泊まれる演劇でした、初めてのイマーシブシアターでした。最高の体験でした。こんなにすごいものだとは想像もしていませんでした。
誰もがその夜に得た自分だけの体験を語り、登場人物への愛を叫び、抱いた感情を共有していた。誰もが120%興奮していた。淡々と書いているように見える人でも、中身は興奮していた。手書きの文字から、こんなにもわかりやすく伝わってくるんだというくらい、興奮が伝わってきた。
「書く」「記す」というよりも、「迸る」という言葉が適切だと思った。それぞれの体験がそのノートに迸って、ページを埋め尽くしていた。
めくってもめくってもそれは尽きないように思われた。
自分はその一人一人の文字を読みながら、どうにも目頭が熱くなってしまった。
その理由を、その時の感情を、説明するのはなかなか難しいのだけれど、やっぱり一人一人と夜を越えて対話をしているような気持ちになったのだと思う。顔も名前も知らない、違う夜に同じ部屋に泊まっただけの誰かと。
みんなそれぞれに物語があって、違った景色を見て違った思いを抱いて、そうか、あなたにはそんな物語があったんだね。あなただけのかけがえのない体験があったんだね。教えてもらえて嬉しいよ。
でも中には自分もそうだよ、自分も見たよ、そう感じたよ、同じだね、と感じることもあって。最高の夜だったよね!!!とか、みんなと別れるのは寂しいよね!!!とか、そういう気持ちはきっとみんな共通だったんだろうな、今の自分とおんなじように、このベッドに腰掛けて、濃厚な一晩の余韻に浸りながら、あの人との会話を思い出しながら、ぼーっとしていたんだろうか。そんな姿がたくさんの夜のその数の分だけ重なって、その一番端っこに自分がいる。明日もその次もきっと同じようにぼーっと座っている誰かがいる。
ああでもこの2月7日のこの人が、実はもうこの世にいないことだってあるかもしれない。この人たちが今どこでどうしているのか、自分は知る由もない。極端だけどそんなことまで考えて、それってなんだか夜空の星の瞬きみたいだなあと思ったりもして。
『Moonlit Academy』という物語を媒介にそうやって過去の宿泊者たちと対話をして、秘密を見せ合うみたいに体験を共有して、束の間人生が交錯したようで、たぶん嬉しかったのだと思う。嬉しくて尊くて同時に物凄く切ない。
ああ、ホテルという場所で花岡さんが見てきた光景ってこれだったのかなあ、と今これを書きながら思った。
泊まれる演劇というイマーシブシアターを手段として、物語を媒介として、その一晩だけ交錯する物語。
作品の中で誰もが違う体験をして、それを共有し合うというのはイマーシブシアターの醍醐味の一つだと思う。それは人生の縮図でもある。
それに加えて、その人自身の背後にある物語までをも時折想像してしまう。その人の乗ってきた列車や買ってきた切符や守ってきた荷物のことを想像しながら、ホテルというプラットホームで束の間語り合う。そしてリアルタイムで集った人たちだけでなく、夜を越えた誰かとも共有できる。忙しく過ぎる日々の中で、人々がいったん立ち止まって集い、同じ屋根の下で誰もが密やかに夜を抱えるホテルという場所ならではの、それは醍醐味なのではないかと思った。
このゲストノートは同時に、泊まれる演劇が提供する体験の素晴らしさの何よりの証明でもある。誰一人として置いていかないことやソロ参加に対する優しさについてもすでに書いたけれど、実際このシングルルームに泊まっていたのは全員がソロ参加者である。その人たちが私はこんなにも素晴らしい体験をしたと叫んでいる。実際、中には「泊まれる演劇初参加で一人だったので不安だったけど最高に楽しめた」「私という存在をすべて受け入れてくれることを前提に成立していて、何より居心地が良かった」というような感想もあった。優しさがしっかり伝わっている。
そしてこのゲストノート自体が、泊まれる演劇から我々ゲストへのホスピタリティの表れだと思った。あなただけの物語を聞かせて。夜を越えて繋がって。一人だけど一人ではないよ、と。
多くは語らず包み込むような、ホテルの視点のホスピタリティ。
結界の音
ところで、ノートを読んでいると気になる内容に出会った。
複数の人たちが、部屋で夜中に聞こえてくるという「音」について書いているのだ。
「今日は1時でした!」「今日は1時15分でしたよ」。
「結界の音」というフレーズも出てきた。
何の話だろう?
よくわからないけれど、とりあえず涙とほろ酔いと眠気と興奮とでシパシパになってきた眼をこすりながらシャワーを浴びて、寝る準備をした。
するとまさに午前1時頃、隣の部屋?から不思議な音が聞こえてきた。
何らかのまじないがかけられたのか、たしかに結界が張られたような、封印されたような、いろんな音が入り混じった、とにかくそれは「ならざる力」の音だった。部屋の中まではっきりと聞こえた。
泊まれる演劇では、舞台となったそれぞれの部屋が「終演」後も開け放たれて、自由に見て回ったり写真を撮ったりすることができる。
部屋の中は細部に至るまでそれはそれは美しく作り込まれていて、それぞれの登場人物の内面世界までをも投影するような、不思議で繊細で濃密な空間になっている。各部屋を見て回るだけのツアーを組んでも一つの興行として成り立ってしまうかもしれない。
そんな贅沢な空間を惜しげもなく存分に見せてくれるということに、初参加の時には衝撃を受けた。なんて優しいんだろう。できればじっくりとは見せたくない部分があるとか、美術の破損の恐れがあるとか、躊躇う理由は素人でもいくらでも考えられるというのに、これを自由に見て回っていい……だと……?写真撮影もOK、一定の配慮のもとであればSNS掲載も歓迎……だと??
何より登場人物たちとあの濃密な一夜を過ごした空間にゆっくり浸ることができる、我々ゲストにとってそのことが持つ意味を、作り手はわかってくれている。いろんな懸念を跳ね除けて、ゲスト一人一人の忘れられない最高の一夜のために、これをやってくれている。ありがたすぎる。
そんな各部屋は深夜のある時間(公演ごとに異なる)になると閉じられ、翌朝にはもう扉が閉ざされた状態になっている。今まではその閉じられるタイミングというのはわからなかった。
でも今回、「結界の音」が聞こえた。あれは明らかに各部屋にいるゲストに向けられた音だった。クリアで深い音響だった。
(音響についても書き始めると長くなってしまうのだけれど、ここ数作ですごく進化しているような気がする。めちゃくちゃ音が良い。音響が良すぎてここは本当にホテルなのか疑わしい。『雨と花束』の儀式の音、今作の吹さんの回想の音など、圧巻だった。)
深夜1時に、あのクリアで深い音を鳴らしてくれる意味というのは、部屋を公開してくれることやゲストノートを置いてくれること、誰一人として置いて行かれないように工夫を凝らしてくれること、チケットキャンセルの仕組みを作ってくれること、そういうことときっと共通している。
同時にあの音は、翌朝には日常へと帰っていくゲストたちに、不思議で必死で温かい『Moonlit Academy』の世界から手向けられた「おやすみ」であり「さよなら」であり「またいつか」であるのだと思った。
他の部屋の人たちも聞いただろうか。きっと聞いたに違いない。
夢のような一夜を共に過ごした全員が、それぞれの思いを抱えながらこうして同じ屋根の下で眠るこの瞬間がいつも愛しくて切なくてならない。
世界からこの耳に手渡されたあの音が心に沁みて今も離れない。