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2023年に参加したイマーシブシアター振り返り

※2024年1月6日にX(ふせったー)に投稿した記事です。

去年……いやもう一昨年か……年末に投稿した2022年のイマーシブシアター振り返りふせを見てみたら、以下のように書いていた。

個人的な嗜好を超えて、イマーシブシアターの持つ巨大な可能性にも震撼させられた。
「イマーシブシアターは人間が作り出すエンターテイメントの未来である」という確信が、イマーシブシアターとの出会いの日以来、一貫して自分の中にある。
その未来をまさに切り拓かんとしているのが、DAZZLEであり、ムケイチョウコクである、と本気で思っている。
色々な団体がイマーシブシアターを標榜した公演を打ち始めた、イマーシブシアターの夜明けとも言えるこの時期に出会うことができた幸運、同じ時代を生きられる幸運、どう感謝したらいいのかわからない。

2022.12.30
https://fusetter.com/tw/BSUIVXVm

ああこの思いは一年経ってもまるきり変わっていないなあ、というのが、率直な感覚としてある。

もちろん、2023年を通して色々な動きがあった。
何と言っても、日本で「イマーシブシアター」を標榜する作品を作っている団体の多くが影響を受けたことを公言している、2000年代以降のイマーシブシアターのパイオニア、Punchdrunkの『Sleep No More』(ニューヨーク)の終了が発表された。

※スリープノーモア、いまだに観たことがありません。。3月までの延長が決まったとはいえ、今の環境的にどう頑張ってもNY行きは無理なので、悲しいけれど「見られなかった景色」を噛み締めるしかない。見たかったけど見られなかった景色、これもまたイマーシブ……(歯を食い縛り地に臥す)

日本では、国内イマーシブシアターのパイオニア、ダンスカンパニー・DAZZLEが「2本の常設公演を同時に走らせる」という信じ難い挑戦を実現し、今この時も、あらかじめ決まった休演日以外一日たりとも休むことなく継続している。
運営の厳しさを知らぬ客側の自分から見てもこれはとんでもないことだとわかる。ましてやその2本の開幕時期が半年もズレていないなんて。脚本演出に練習に内装から受付までほぼすべてを出演者が自前で行っているなんて。まもなくオンライン配信が始まるなんて。
大体にしてDAZZLEは2023年、一年で計5つのイマーシブ公演を上演している。全部違う場所で。意味がわからない。

特に横浜市を実施主体とし、DAZZLEが総合演出を担ったクルージング・イマーシブシアター『海へ還る風となって』(10月)は、横浜の成り立ちの物語を河川をクルーズしながら追体験するという、全く新しい試みだった。これも見に行けませんでしたが……(歯を食い縛り地に臥す)

公共との連携という意味でも可能性が広がるし、「場所」や「土地」と密接に結びついたイマーシブシアターがそれぞれの場所や土地のことを深く知るためのツール(語弊があったらすみません)になりうるという方向性は、今後の可能性を大きく広げるものだと思う。「プレイスとイマーシブシアターの幸せな関係」。
泊まれる演劇はもちろん、ムケイチョウコクと古民家カフェ蓮月や、daisydozeとBnA_WALLといった組み合わせでも、その一歩手前かもしれないけれど近いものを感じた。2024年以降この形式はますます増えていく可能性がありそう。

そして、DAZZLEの伝説的作品(とファン歴の浅い自分が勝手に呼んでいる)『Venus of TOKYO』の会場であり世界そのものでもあったお台場・VenusFortにおいて、「世界初」のイマーシブテーマパーク「Immersive Fort」が2024年3月にオープン、という大きなニュース。

そんな2023年もイマーシブシアター公演に参加した記録をまとめておきたい。
たくさん通っている人に比べたらきっとそんなに多いわけではないけど、どれもこれも印象深い、心に残る作品だった。
たぶん2023年現在のイマーシブシアターはまだ資本の波に飲まれていなくて、めちゃくちゃ志高く道を切り拓こうとする人たちが試行錯誤を凝らしながら作っているものばかりだから、半端ではない熱量を感じる作品しかないのだと思う(資本の波に飲まれている世界には正直なところそう感じないものがけっこうある)。ありがたい限りです。

いつもながら、作り手でも批評家でもないただの一観客のメモですが、偉そうなことを言っていたらすみません。
あとはその作品で自分が何を感じたのか、ということに関しては、没入直後のアツアツの状態で夢中で綴った文章以上のものは書ける気がしないので、度々自分のふせのリンクを貼ったり引用したりしています。

そうやって端折っているのにコツコツ書き溜めていたら人様に読んでいただく分量ではなくなってしまいました。せめて未来の自分宛てのメモということで…。

■2023年に参加した「イマーシブシアター」を名乗る作品

1月
『同窓会』(「芹星国際大学同窓会」製作委員会)
東京・マリーグラン赤坂
※オンラインのみ参加

3月
『ホテル・インディゴ』(泊まれる演劇)
大阪・HOTEL SHE, OSAKA

3-4月
『百物語 -零レ桜-』(DAZZLE)
東京・表参道某所

4-5月
『MISSION8』(ego:pression)
東京・Studio Flamme(新木場)

4-5月
『反転するエンドロール』(ムケイチョウコク)
東京・Space&Cafe ポレポレ坐(東中野)

4月〜
『Lost in the pages』(DAZZLE)
東京・ABAB上野

6月
『雨と花束』(泊まれる演劇)
大阪・HOTEL SHE, KYOTO

6月
『黄昏のまほろば遊園地』(SCRAP)
東京・東京ドームシティ

9月〜
『Unseen you』(DAZZLE)
東京・白金某所

10-11月
『漂流する万華鏡』(ムケイチョウコク)
東京・古民家カフェ蓮月(池上)

12月
『Anima』(daisydoze)
東京・BnA_WALL(日本橋)


■2023年に参加した「イマーシブシアター」を名乗っていないけどイマーシブだった作品

2月
『ゲマニョ幽霊』(おぼんろ)
都内某所・ゲマニョの芝居小屋

11-12月
『letterpool』(MYAA)
東京・墨田区

12月
さいたま国際芸術祭 メイン会場
大宮

時系列とは関係なく気まぐれにいきます。
まずは直近で参加したイマーシブシアター、daisydozeの『Anima』から。

■『Anima』(daisydoze)

2022年の同時期、daisydozeの前身であるDramaticDining時代にも、同じアートホテルBnA_Wallでイマーシブシアター『Dancing in the Nightmare ユメとウツツのハザマ』が上演された。
今作はその公演を下地としつつも、登場人物は一部を除いて大幅に増え、ストーリーや演出も全く新しいものになっていた。
東宝株式会社演劇部による制作協力、というのも、業界的には大きなニュースだったのではないかと思う。キャストにはプロのミュージカル俳優さんも起用されていて、実際作中で、目の前で歌われる歌が美しすぎた。イマーシブシアター×ミュージカル=夢の世界。

ロビー

daisydozeについては、夏に世界最大のイマーシブメディア "No Procenium"に取り上げられた記事がとても面白かった。daisydoze竹島さんにより日本語訳が公開されています。一部引用。

彼らの持つ「物語の一部になる」という表層的な没入ではなく「真に没入できるボーダレスな演劇体験を作る」というビジョンは、挑戦的であると同時に野心的でもある。

(中略)

イマーシブシアターのような新しい作品形態が受け入れられるのは決して簡単ではないが、特に、保守的な日本での挑戦は容易ではない。日本人は一般的に、それぞれの作品を演劇、ダンスなどの既存のジャンルに当てはめたがり、変化には極めて慎重である。また、観客視点においても、作品を感覚で楽しむのではなく、自分の役割を明確に理解した上で、間違いのない適切な行動をとりたいと考える。このようなスタンスは、文化を超越した体験を創造しようとする新進気鋭の劇団にとって、大きな障壁となる。

https://note.com/immersivetheater/n/n5411797aaf3c

daisydozeのイマーシブシアターは、まさにこの記事に書かれているような独自性を持っていると思う。
daisydozeに名称が変わった時に公開された、企業的に言えばクレドとも言うべき「Who We Are」のテキスト、ここまで明確なビジョンを示すテキストが公開されたことに自体も驚いたしワクワクしたのだけれど、その一文目を見てさらに驚いた。

私たちが紡ぐのは、物語ではなく深層世界です。

https://www.daisydoze-immersive.com/aboutus

物語ではない。そう言い切ってしまうとは。
深層世界。物語ではないにしても、深層世界…!

でも実際に参加した時のことを思い出すと、そして今回2作目に参加してみると、たしかにその通りだった。
誰とも共有することのできない個別的な体験がそこにはあり、作品世界は説明可能な物語として受容されるのを拒んでいるように見えた。言葉ではなく、感覚で受け取る。そして他者と共有可能な広がりの方向ではなく、各参加者の中へ中へ、自分の内側の、深層へと分け入っていくような体験だった。
深層へ分け入ってきた光景は、そのまま深層に刻まれて、断片的な光景として時折思い出される。光景ごとの画は一枚一枚強烈にアートで、夢でよく見る光景みたいにふいにピカっと思い出す。その度に「あれは夢だったのかも」と思う。一緒に誘導されていた他者はいたはずなのだけれど、不思議とその光景には出てこない。自分と世界だけがフラッシュバックする。
まさに「一級品のまどろみ」が提供されている。

完全誘導型、という形式は、こういったdaisydozeによって目指されているものから必然的に導かれるのだなあと思った。
参加者は登場人物たちによって部屋から部屋へ目まぐるしく誘導され、一応グループに分けられているもののその人数は分割され、また戻り、時に1人や2人にもなり、かつ消えかつ結びて、たくさんの個別的な体験が待っている。夢の中を「彷徨わされている」という体験。
高い芸術性や土地に立脚した空間軸、時間軸の重層性も含め、本当に独自の、型に嵌めようのない世界が作り出されていると感じる。

開場中に定期されるお酒も、重要な役割を果たしている。
上の記事を読んだ時、「米海軍の睡眠プロトコルを応用した誘導瞑想」が使われていることにめちゃくちゃびっくりした。この人たち、本気だ……!本気で深層世界をやる気だ…!!
難しそうな睡眠プロトコルは実感としてわからなくても、お酒を飲むことでじんわりと感じられる深層世界の入口というのは確実にある。そのお酒が作品世界とも結びついていることで、ますます没入が高まる。daisydozeが紡ぐ深層世界への没入ステップの最初の一つであるように感じた。
少しお高いなと思うかもしれないけれど、お酒が大丈夫なら絶対飲むことをおすすめします。

daisydozeの作品や形式は、世界に発信するという意味ではものすごく可能性があると思うし、先の引用にもあるように、むしろ海外の方がストレートに響く人が多いんじゃないかというくらい。「Who We Are」と並んで表明されているVisionで「日本独自のイマーシブシアターを海外へ」を謳われているdaisydozeが2024年以降も進む孤高の道を、日本国内の一観客として着いていけたら嬉しい。

深層世界、というところでは、DAZZLEの『Lost in the pages』にも似たような掴みどころのなさを感じた。

■『Lost in the pages』(DAZZLE)

※DAZZLEの常設作品2本はまだ上演中のため、ネタバレを避けつつ簡潔に。

上野ABABの一角、細長いスペースを使ってのイマーシブシアター。百物語ほどのワンボックスではないけれど、面積的には表参道と同じくらいな気がする。ただ、部屋の仕切りに透明なガラスの仕切りが使われているために見通しは比較的よく、複数のシーンを同時に目撃することもできる。ガラスを通して向こう側が見えることを利用した演出も。
キャストの人数、観客の人数ともに百物語並みに少ない。

日本文学がテーマと聞いた時に、一体どうやってやるんだろうと思った。実際に足を運んで、その疑問は想像の斜め上をいく形で解消された。
現実と物語、過去と現在、様々な世界が入り混じった独特の世界観の中で、まさに本のページに迷い込むような体験。しかもそれらは破綻するどころか緻密に関連付けられていて、見た人ごとに違った解釈が生まれそうな多面体に仕上がっている。

そんな解釈の一つに自分がようやく辿り着いたのは夏になってからで、このふせを苦しみながら書いたことで自分の中でのLost in the pagesは一つの区切りがついた(とあえて言いたい)。 

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2023.8.26
Lost in the pagesの物語構造に関する自分なりの解釈。長文でネタバレあり。合言葉は1冊目の書名3文字。
https://fse.tw/z4m7L6oW
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4月に初回を見て以降、一旦栞を挟むような時期もあり、個人的に作品との向き合い方を考えさせられる作品だった。その分色々な可能性を考えたし、自分が見たものを自分なりに、自分の持っている価値観や言葉と絡ませながら深め続けるという大切な経験にもなった。

ロストは今も、四季折々の風景と共に進化を続けている。なかなか足を運べず、まだ見られていない景色もあるし、終わりが来てしまう前に悔いが残らないようページの中に迷い込みたい。
まもなく始まるオンラインの物語も楽しみで仕方がない。

DAZZLEのもう一つの常設公演が『Unseen you』。

■『Unseen you』(DAZZLE)

「東京には、大通りから名も無い脇道を一本入るだけで誰も知らない世界が存在しています。」

という公式サイトの導入文が示す通りの場所に立地する、本当にこんなところで……?と疑うような、脇道の先の何の変哲もない建物の中に、濃厚な世界が広がっている。そういう立地になっている意味は、物語を目撃するとわかる。

「この作品を見つけたあなただけが、誰も見ることが出来なかった瞬間を目の当たりにすることでしょう。」

まさに、「見つける」という言葉が相応しい、知る人ぞ知る世界。
ハリー・ポッターで言えば、さびれたパブ「漏れ鍋」の奥に広がる魔法世界「ダイアゴン横丁」のような。ナルニア国物語で言えば、古いお屋敷の洋服箪笥の向こう側の銀世界のような。
まるで『Unseen you』の存在自体がファンタジーの「向こう側」の世界のよう。常設でほとんど毎日、世界への扉が開かれているというのも大きい。

もしこの作品でDAZZLEやイマーシブシアターにはじめて出会ったとしたら、こんな場所でこんなことが行われていたなんて!!!と、この世界を見つけることのできた幸運に思わず祈りを捧げていたことでしょう。
世界には自分の知らない濃くて熱くて美しい場所が、密やかに、もしかしたらすぐ隣の建物に、存在しているのかもしれないと思うだけで、子どものように胸は躍る。

伝説的作品(しつこい)『Venus of TOKYO』の記憶にも繋がる物語ということで、ファンにはたまらないポイントも散りばめられている。たぶんまだ自分が気づけていないものもある。
VoTはオンラインの再配信が今のところは週に一度行われていて、購入すれば1週間のアーカイブが残る。『Unseen you』と合わせてVoTの記憶が「常設」で上演され続けているとも言える。VoTの記憶と現在進行形で紡がれ続けるUsyとの往還。幸せなことですね。

さて、そんなDAZZLEの2023年は、実は『百物語 -零レ桜-』で始まっていた。実は、というのは、これがまだ去年のことだなんて、とても信じられないから。もっともっと昔のような気がする。

■『百物語 -零レ桜-』(DAZZLE)

※百物語の公式サイト、URLが一つだから公演ごとにどんどん上書きされてしまっているのがちょっとかなしい。現在は直近の『君影草』仕様になっている。

2022年秋の下北沢→初冬の京都を経て、季節は巡り春の表参道へ。
大幅に変わった謎解き要素、新たな怪談、刹那に明示された設定とmission。これはもう、新作では…?!というくらいに様々な追加変更があった一方、2022年の2公演を経ているからこそ感じたもの、というのも大きかった。
この部分は初回参加後のふせで自分としてはこれ以上ない言葉で書いているので、長いですが引用します。

京都の身体記憶が強烈すぎて、寒くないはずなのに芯から寒いような、変な感覚。春の桜も、冬の冷えの記憶をその身に宿して咲くのかなあと思ったりした。
同じ百物語という儀式に、場所も季節も違えて参加できるということ、その幸せを噛み締めながら漂った。

……とは言いながら、これって本当に「同じ」儀式なんだっけ?と我に返る自分もいた。

枠組みこそ同じ儀式なのだけど、場所も季節も全然違う。
暖かい日差しを浴びながら、自分には場違いな表参道の中心街を歩いて、ふわふわと不思議な状態のままに会場に入って、纏ってきた空気があまりに知らないものだから、「「ここは知っている場所ではない」」という感覚が強まる。

だから逆に聞き慣れた97話目が始まった時、「デジャヴ……?」「この話知っている……繰り返しているのか……?」などと奇妙な疑問がよぎった。
知っていることは当然ではない。知っている通りになるとは限らない。97話目が毎回必ずあの怪談になると、誰が保証できるだろう?

そして98話目の情報量に脳が上げる悲鳴を聞きながら、やっぱりこれは自分が知っている儀式ではない、完全に別物だ、いやそもそも一つとして同じ儀式などないのだ、ということを思い知る。
待てよ、気づいていないだけで、見えていないだけで、実はこの儀式はそこここで行われているのかもしれない。あるいはどこかの並行世界で、毎度中身を変えながら、儀式が繰り返されていてもおかしくない。

かと思えば、何かの音や何かの光や何かの言葉をきっかけにして京都五條会館のあの底冷えの記憶がやってくる。一瞬、下北沢の土砂降りの雨の匂いが鼻をつく。

そうしているうちに、過去の儀式の記憶を身体全体に宿しながら、毎度一つとして同じ中身のない儀式に参加する、ということが、いかに重層的な体験か、ということに気がついた。

表参道という煌びやかな場所の片隅で、うららかな日差しを浴びて、鼻をすすりながら参加した儀式の記憶は、きっとまた身体に刻まれる。音や光や影や感情とともに。

そしてこれからまた色々な場所で色々な季節にこの儀式が続けられていくのだとしたら、その度に記憶は積み重なっていくだろう。

それらの記憶を宿しながら、不可避に呼び起こされながら、なおも新しい物語が、一回ごとに生まれ続けていく。
「ものすごい思いで」集った参加者全員で作り上げられる一回きりのドラマ。本当に一つとして同じものはなく、かつ驚くほど美しくて儚い。

それはまさに、桜の木が、これまでに通過してきた幾たびもの冬の冷えの記憶を宿しながら、何巡もの春夏秋冬の記憶を宿しながら、この春に一度きりの花を咲かせる、溢れんばかりに美しく同時に儚い花を咲かせる、という尊い営みに似ているかもしれない。

もしかして、それこそがひとつの「文化」なのではないか。

と思った。

「零レ桜」とは、なんというタイトルだろう。

2023.3.18
https://fusetter.com/tw/L2Mw6J6w

あれから季節が3つ巡った今『零レ桜』公演のことを思い出すと、当時はあまり意識していなかった「桜の匂い」が呼び起こされる。
毎公演前にふらっと訪れていた近くのお寺の桜が綺麗に咲いていて、散る頃に千穐楽だったような記憶がある。その中を歩きながら、別に桜の匂いを「桜の匂いだな〜」と感じていたわけではなかったはずなのだけど、身体の記憶にはちゃんと残っていて、今になって呼び覚まされる。やっぱり作品と結びついてその土地土地、季節季節の記憶が身体に刻まれているんだなあ、と改めて思う。

フォトスポット

ちなみに『零レ桜』の怪談では、「捏造」が一番好きでした。緻密かつ複雑に作り込まれた構成、ゾクっとする演出、謎だらけの筋書き。どれも魅惑的で、当時考察が止まらずふせまで書いたのが懐かしい。電話の音、怖かったなあ…。

5-6月の『君影草』(京都・五條会館)には参加できなかったので、百物語の身体記憶は春の表参道で止まっている。あの儀式の空間、とりわけ前半部分の張り詰めた空気がとっても恋しい。サノマのお香を焚きながら、成仏しきれない思いは募る。次はどこの空へと導かれるのでしょうか。

西の空、ということで、続いては泊まれる演劇。
長くなってきたので短めに、短めに……

■『ホテル・インディゴ』(泊まれる演劇)

『MIDNIGHT MOTEL'22 "ROUGE VELOURS"』 に続き、2回目の「泊まれる演劇」参加。大阪は初。前回は人と来たので一人参加も初。

登場人物とストーリー、それからクエスト的な、というべきか、条件を満たさないと進まないような展開も複雑で難しく、その場ではほんの一部しか物語を理解できていなかった。終盤にいつのまにか登場した新キャラもいたり。後日LINEのオープンチャットで図解してくれている方がいて、それを見てようやく全貌がうっすらわかった。

初のソロ参加で色々と尻込みしてしまったこともあり、個人的にはモヤりや後悔が残りがちだったことに加え、6月に参加した京都の『雨と花束』の印象が強すぎてこちらは相対的に薄くなってしまっている気がするものの、泊まれる演劇という枠組みがもたらす体験の濃さは相変わらずすごいものがあった。

星降る一夜にどっぷり浸かり、最後に飲んだチョコレートのスープ(!)の味は鮮明に覚えている。

■『雨と花束』(泊まれる演劇)

6月には京都で『雨と花束』。
3ヶ月のスパンで泊まれる演劇2作品に参加できるなんて、と幸せを噛み締める反面、若干の不安(当日まで何事もないか…)や後ろめたい気持ち(贅沢すぎるのでは…)も掠めながらの参加だった。
でも結果として、これまでに参加した3作品の中でも文句なしで一番好きな、最高の作品、最高の体験となった。

世界観、テーマ、演出、脚本、会話の中身、身体的な体験の中身、参加者一人一人の体験のバランスや孤立しない工夫、物語に置いていかれる人がいないようにするための工夫、などなど、作品の中身としての作り込みから、一歩引いて見た「体験」を充実させるために随所に凝らされた工夫まで、あらゆるバランスがすごく良かった。
作り手は参加者一人一人のことを見てくれている、数ではなく人間として見てくれている、という確かな感触があった。作り手の内部でのコミュニケーションもきっとそこに立脚しているのだろうと思わされ、安心して作品世界に身を委ねることができた。

そのあたりも含めた最大限の感謝を込めて、千穐楽後に長文のふせに記したので詳しくはこちらに譲る。ここだけで何かを語るには余りある。

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2023.8.2
久々に長文。 #泊まれる演劇 『雨と花束』に参加した夜の断片的な #雨色の思い出 と、作品を貫いて感じられた「存在の肯定」。誰もが意味を免れ、「物語のための犠牲者」となることなく等しく尊重され、慈しまれ、存在を肯定されるということ。
https://fusetter.com/tw/BtmltchK
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これとは別に、公演アンケートにも、作品内外で作り手を信頼させてもらえることへの感謝を記した。
そうしたらクリエイティブディレクターの花岡さんがそのことに対する(と勝手に思っている)ツイートをしてくださったことが本当に嬉しかった。イマーシブ関連で一番嬉しかった出来事オブザイヤーかもしれない。一介の参加者の声が作り手にきちんと届いていること、そしてそのことを嬉しいと言ってもらえたことが、こちらこそ嬉しかった。参加者の色々な声を受けて作品が変わっていく、ということも。

制作プロセスが垣間見える時に、作り手に対する信頼や感謝が湧き起こる、という体験は、後述のムケイチョウコクでも度々させてもらっている。2023年末現在、泊まれる演劇とムケイチョウコクという2つの団体には、自分の中でそうそう揺るがない信頼が出来上がっている。それは個々の作品自体とは半分別次元のものだから、今後の作品で仮に自分にはあまり刺さらないものがあったとしても、安心して追い続けられる。

そんな安心と信頼のムケイチョウコク、に行く前に、2023年にはじめて参加した団体、初めて体験した形式、イマーシブシアターと名乗ってはいないけれど「イマーシブだ!」と思った作品をいくつか。

■『黄昏のまほろば遊園地』(SCRAP)

謎解き、リアル脱出ゲームを中心に制作するSCRAPが提供する「体験する物語Project」の最新作。
前作の『ALICE IN THE NIGHT MYSTERYCIRCUS』は、興味はあったもののちょっと雰囲気が自分には合わないかも、というのと、日程の問題もあって参加せず。
今作は何と言ってもムケイチョウコクの今井夢子さんが脚本をされているということで、是非に行かねばと調整をつけて、土曜の夜に一人で東京ドームシティを訪れた。

会場の雰囲気や導入部分はなかなか一人参加にはハードルが高めで(それはそう。遊園地なんだから)、若干辛かったのだけど、時間が経つにつれて慣れていった。一人でもやってやるぜ、オレだけの体験ってやつをな!!!!(誰)

キャスト一人あたりの観客の人数がたぶんこれまでに参加したイマーシブの中でも最大だった。これについても色々と心配していたのだけれど、遊園地という場所や追った物語のテーマ的には逆にその方が自然というか、あの大人数だったからこそその中にそっと紛れ込んでいたり、キラキラと輝いて見えたりするような、そんな物語だった。
初夏の夕暮れから夜にかけて、熱気が残る遊園地の、照明が照らすたくさんの人たちの興奮気味の顔や歓声、帰り難いような、名残惜しいような空気、そういうものが不思議と体感で「記憶」に残っていて、すっかり寒くなった今でも時々思い出すことがある。

遊園地という特別な場所をフルに使ってのイマーシブシアター、一般の遊園地のお客さんも入り混じる中でたくさんの参加者を相手に紡がれる物語は、おそらく相当な困難があったと推察する。でも『黄昏のまほろば遊園地』は、キャストの皆さんの力、そして場所と人数の条件を見事に逆手に取った物語の強さによって、日常と地続きの、だけどやっぱり特別で非日常な、記憶に残る体験になっていた。

イマーシブシアターの裾野を広げるという意味では一番とっつきやすいかもしれない、「体験する物語Project」、どんな場所が舞台となるのか、にも注目しながら、次回作を楽しみにしたい。

■『同窓会』(「芹星国際大学同窓会」製作委員会)

「リアル観劇」と「オンライン観劇」を組み合わせた「ハイブリッド・イマーシブシアター」と大々的に銘打っていて、公式サイトのオンライン観劇の仕組みの説明に興味を惹かれてオンラインを視聴した。

最大の特徴は「視点の切り替え」ができること。
舞台となる複数の部屋にそれぞれカメラが入っていて、リアルタイムで切り替えられる。配信でしか目撃できない部屋もあった模様。というか、リアルの方はかなり自由度が少なくてほぼ移動は起こっていなかったように見えた。

オンライン配信は初日こそ大きなトラブルがあって大変だったようだけれど、自分が視聴した回は時々重くなったり途切れたりするほかは割合まともに見られた。部屋の切り替えもできて、「同時多発的に起こっている出来事を自分の選択で目撃できる」というリアルのイマーシブシアターに近い感覚で参加できた。

少しイマーシブシアターからはズレるけれど、学生時代に一時期ハマっていたPS2のホラーゲーム『SIREN』を思い出した。
あのゲームでは敵や他の人物が見ている視界を盗み見ることのできる「視界ジャック」という画期的なシステムがあって、それをうまく駆使して身を隠しながらシナリオを進めていく。
視界ジャック中の、「今この瞬間の世界を複数の視点から目撃している」というちょっとした全能感にも似た不思議な感じ、「他人の視界を目撃している」というむず痒いような独特の恐怖感が蘇ってきた。

今回はなかったけれど、DAZZLE作品のように各撮影者にも人格があったとしたら、あるいは何らかの形で各キャラの視界を映像として見ることができたとしたら、「キャラ追い」×「視界追い」という悪魔の乗算が完成してしまい一気に可能性が広がりそうだなと滾った。

イマーシブシアターのリアル観劇では、各キャラクターのことを追うだけでなく、自分の立ち位置次第で「その人に見えているであろう光景(=視界)」を目撃しうる、ということが物凄く大きなポイントだと思っている。
オンライン配信の限界として、「その人のことを追うこと」はできても、「その人の視界を目撃する」ことは難しい。どうしてもその人自身を画面に含めた画角が中心になってしまうから。

でももし、『同窓会』のようなシステムで複数の映像を切り替えることができ、かつ映像が「視界」として意味を持つものであったなら、そのあたりの限界が突破できるどころか、逆にオンライン配信でしか味わえない体験になりうるかもしれない。
(まさかキャストの人たちにカメラを取り付けるわけにもいかないだろうし、無理難題の好き放題を言っていることは承知しております。。)

『同窓会』は有名な俳優さんが起用されていたり、後日テレビ放映もされるなど、各所に資本の匂いを感じる作品で、だからこそシステムを導入できたのかもしれないけれど、こういうこともできるんだ!とオンラインの可能性を感じた。
あとは公式サイトが「https://hybridimmersive.jp/dosokai」なのが気になる。「ハイブリッドイマーシブ」としてシリーズ化される可能性があるのでしょうか。

続いて、遠隔型のイマーシブの可能性、を別方向から感じたのがMYAAの『letterpool』。

■『letterpool』(MYAA)

墨田区が主催するアートプロジェクト「隅田川 森羅万象 墨に夢」 内のイベントの一つとして「上演」されている。イマーシブシアターと明記されてはおらず、代わりに「体験型演劇」という言葉が使われている。

※まだ「上演」は続いている「人もいる」ので、極力ネタバレのないように書きます。

「上演」と括弧をつけるのは、イマーシブシアターを含めた通常の舞台的な公演で言う「上演」とは少し趣が異なるから。通常上演と言った場合に、観客は待っていれば(その時が来れば)上演が開始されるけれど、この作品においてそのコントロールの半分は我々観客の側が握ることになる。どういうことか。

チケットを購入すると、ある日自宅に登場人物からの手紙が届く。この手紙を開くと、公演が開始される。つまり自分の好きなタイミングでこの作品は開演するのである。
最初の手紙には「開演前のご挨拶」が同封されていて、これが唯一物語外のメタ的な書面となる。この書面のまるで舞台作品の開演前挨拶のような文面もとても味があって、好きだった。本当にこれから何かが開演するのだ、とワクワクした。
手紙を開いて物語が始まってからは、自動的に送られてくる手紙を自分のタイミングで開き、そして手紙と手紙の合間に公開される動画を見ることで物語が進んでいく。動画は手紙をくれる登場人物が実際に墨田区の場所に赴いて人と会ったり何かをしたりする様子を映したもので、定点カメラで、変に編集されず、偶然その場に居合わせてそっと目撃しているような自然さがある。映像や音響の質も高くて、動画だけで一つの映像作品を鑑賞しているみたいだった。綺麗だったなあ。

手紙と動画、という新しい形式で進んでいくこの作品は、自分の生活に優しく寄り添ってくれているような作品だった。
忙しい時期には届いた手紙をすぐ開封できないこともあったけれど、届くたびに嬉しかったし、未開封の手紙が机に置いてあるだけで元気が出た。好きな時に物語を始められる。手紙の中には物語が封じられているのだけど、自分が開封していないからまだ開演していない。シュレディンガーの体験型演劇。

演じられた作品のアーカイブ配信を見る、というのも、見るタイミングを自分次第で決められるという意味では同じような性質を持っているかもしれないけれど、手紙があるのとないのとでは大きな違いがある。
アーカイブ配信は、世界に向けて開かれている。
手紙は、自分一人に宛てて届いている。宛名には自分の名前がある。
その手紙は自分宛に届いているのだから、他の人は関係ない。自分と物語との、一対一の親密な関係が続くのである。

最後に是非触れておきたいのが、この公演には「トリガーワーニング」があった。
チケットを購入した後のタイミングで、詳細情報ページにトリガーワーニングが追加された。通常の演劇公演とは異なる形式であることによる影響への配慮がなされていた。
https://letterpool.peatix.com/
さらにすでにチケットを購入していた人宛のメッセージには、(トリガーワーニングを受けて)「キャンセルを希望される場合もご遠慮なくお知らせください」と書いてあった。
作品自体とは関係なく、上に書いた「自分と物語との、一対一の親密な関係」に対する作り手側の解像度が、本当に素晴らしいと思う。

■『ゲマニョ幽霊』(おぼんろ)

「おぼんろ」という名前をタイムラインで時々見かけていて、気になっていた。
はじめて見に行けたのが、この『ゲマニョ幽霊』。

この度、おぼんろは1600年代に残された伝説的な文献を日本で初めて翻訳し、当時の儀式を再現しようと考えています。

原始の頃、世界中のほとんどの国で政治の基盤はまじないや儀式、占い、予言、によって行われていたことはご存知と思います。

その中に、神々の前で演劇を捧げると言うものがありました。

それが、呪法劇です。

https://www.obonro-web.com/gemanyo

歴史の闇に隠蔽された1600年代の呪法劇作家ラマエ・ダバースクの文献を翻訳し、その儀式を世界ではじめて上演するというもの。
参加者は掟通りに誓約書を交わして参加し、儀式の場所や内容も決して口外してはならない。

口外できないので多くは語れませんが、本当に凄かった。
座したままいつのまにか深く没入していて、熱量にぶん殴られ、感情が揺さぶられ、何度も衝撃を受けて、終わった後は放心状態だった。
あくまで「舞台」「演劇」という形をとりながらも、既存の枠をぶち壊しながら新しい世界へ連れて行ってくれる、そんな力を感じた。

2022年始にイマーシブシアターと出会ってから、没入というのは舞台と客席の関係をなくし、自分で視点を決められることや、同時多発的に何かが起こる時にこそ深まるのだと思っていた。でもそんな一夜漬けの浅い考えは、おぼんろという底知れぬ熱と力を持つ人たちによって早くも打ち壊された。
この呪法劇に参加できて本当に良かった。

ここからはまたイマーシブシアターに戻り、2022年にも参加して大好きになった2団体。

■『MISSION8』(ego:pression)

待ちに待ったエゴプレの新作!
しかも2022年に参加して(いい意味で)相当引きずった『RANDOM18』の前日譚ということで、高まる期待を胸に新木場へ向かった。

新木場駅から歩いて30分、海に挟まれた半島状のエリア。会場の周りには企業の倉庫や配送拠点が並び、明らかに人間が生活している場所ではなかった。生活感の欠落と無機質な風景、強い潮風、モノクロが似合う、ある種の異世界だった。
風にバタバタと鳴るトタンの音や重々しいシャッター、コンクリート打ちっぱなしの地面にむき出しの骨組み、会場の中も終末の世界観に満ちていた。

新木場の会場すぐそばで撮った写真

多フロアで小さな空間も多かった『RANDOM18』から一転、「ワンボックスシチュエーション」であり、大体の人の動きが何となく把握できる。
登場人物の数も、多すぎるために腹を決めて一人を追い続けた前作と比べると少なめで、逆に誰を追うべきかが悩ましかった。一つのシーンに絡んでくる登場人物の数が多く、また一つのシーンを見ているとその後ろで起こっている出来事が垣間見えたりもするから、一人を追いながらも度々心変わりしそうにもなった。

ストーリーはもう、そんなのダメですって……泣くでしょ……というもので、最後降りてくるシャッターの隙間から見え、もう……ああああぁぁぁ(東京湾の藻屑となる)

『RANDOM18』もそうだったけれど、心の深い部分を抉られる展開、残酷な現実の中にこそ灯る人間の温かさ、人と人との間に生まれる何かが、言葉なく炙り出されて、たぶん言葉がないからこそ、目撃する一人一人が120%の集中で張り詰めたアンテナがフル受信して、それぞれに胸が詰まってしまう。
固定的で硬質な「言葉」というもので表すには柔らかすぎるかもしれない繊細なものが、躍動する身体全体でしなやかに爆発的に表現されて、そのギャップが心を打つ。本当はみんな全力で生きているのだけど、誰しもの身体がダンサーさんたちのように躍動するわけではないからそれがわからない。ego:pressionの激しいダンスで表現されるものは、そのことを思い出させてくれるのかもしれない。

『MISSION8』のたくさんのダンスの中で、なぜか度々思い出すものがある。それは前半のルーティン的な一連の流れの中の、なんというか小気味良い感じのステップを踏みながら踊るダンスで(全然伝わらない気がする)、軽快な音楽と合わさって妙に印象深い。C-ezan役のManaさんの、だんだんと感情を知りつつある楽しそうなちょっと剽軽な表情も一緒に思い出される。
ego:pressionの作品では、過程の中に楽しさや笑顔、前向きで真っ直ぐな感情がたくさんあるからこそ、最後が効いてくる。

当時書いたふせから少しだけ引用。

絶望の中に生まれる胸が締め付けられるような悲哀のドラマよりも、たとえ僅かであっても希望あるところに生まれる人間讃歌が好きだ。
前者のドラマ性は他者か、自分か、どちらかが傷付くことで成り立つものだから。同じ世界の中で生きているし生きていくんだから、なるべくならそうじゃない方が好きだ。
一筋の希望を見出そうとする世界の中で、ともに生きることのできるイマーシブシアター。だからこんなにも胸が熱くなる。

2023.5.3
https://fusetter.com/tw/7IUIt5d3

8月には株式会社化されたということで、今後の展開もとても楽しみ。
まずは2024年3月に開催が決定している次回公演の詳細が間もなく出るということで、大変気になります。なんとなく、DAZZLEの横浜イマーシブに連なるもののような気がしているけれど、どうなんだろう。

■『反転するエンドロール』(ムケイチョウコク)

こちらも待ちに待っていた、2022年の千穐楽に傍観者チケットで参加してただならぬ感動をもらった『反転エンド』の再演。
今回は登場人物チケットを取ることができ、大筋はわかっているだけに、どの役になるのか、緊張半分ワクワク半分、いや緊張8割ワクワク2割、いずれにしても情緒が持っていかれる覚悟を決めて参加した。

自分の役の情報が書かれたハンドアウト

いやもう、初めての登場人物とんでもない。
間違いなく、生きてきた中で初めての感覚、初めての体験だった。
これも当時のふせでできる限りの言葉で書き残していて、引用もしようがないので、リンクを貼るにとどめます。

2023.4.30
https://fusetter.com/tw/jLAsZrcj

それから登場人物で参加した後に傍観者で参加した時がまた、凄かった。
自分がかつて生き、居場所を与えられ存在を肯定されたその場所に戻ってきた。言葉や視線を交わし合った人たちのところに戻ってきた。皆生きていた。それだけで自然と滂沱の涙が流れ落ち、茫然としたのをよく覚えている。
幼い頃ずっと過ごした実家に帰って来るのとか、同窓会で久々に友人たちと会うとか、そういうのともまた全然違う。ムケイチョウコクのイマーシブシアターでしか流れない種類の涙かもしれない、とそう思った。

イマーシブシアター祭りだった2023年のGW、実は同じ日に『MISSION8』と『反転エンド』をハシゴした日があった。それが反転エンドに登場人物で参加した日。
新木場と東中野という街の落差に風邪を引きつつ案の定情緒は爆死したのだけど、形としては大きく違っている両者に共通するものも感じた。

ego:pressionのイマーシブ(自分が参加できた『RANDOM18』と『MISSION8』)では、観客は登場人物たちとは薄い透明な膜を一枚挟んだような立ち位置に置かれる。それがまた、ego:pressionからしか得られない感動を呼ぶ。目の前で起きていることに、触れたいのに触れられない。助けたいのに助けられない。一番近い距離で、ほとんど触れ合っているのに、ただ成り行きを見つめることしかできない。全神経を張り詰めさせて、強い気持ちで見つめることしかできない。だからこそ感じ取るものがある。

対してムケイチョウコクのイマーシブシアターは、登場人物と言葉を交わすことができる。言葉を交わす中で、役としての自分の存在が世界に、世界内の人に、大きな影響を与える。同じ世界に同じ目線で(でも違う視点で)生きるからこそ、感じ取るものがある。

観客(参加者)の立ち位置が全く違う2つのイマーシブシアター。
そして何より、発話のないego:pressionと発話によるコミュニケーションが大きなウエイトを占めるムケイチョウコク、という大きな違いもある。
にもかかわらず、それぞれの作品から感じ取るものはとても似ている気がする。
それはきっと、「核はシステムにあるわけではない」からだろう。

■『漂流する万華鏡』(ムケイチョウコク)

2023年はムケイチョウコクも2作品、ぷらすを含めて3作品。贅沢…!
反転エンドからはまた雰囲気が変わり、古民家一棟2フロアを使っての作品。ただ世界が大きく2つに分かれていて、人々がその間を行き来するという点では反転エンドと似た構造だった。
各フロアの中では細かく分かれた数人でのコミュニケーションが中心になっていて、かつ特定の人との関係をずっと深めていくようなものが多く、そこは反転エンドでいろんな人と入れ替わり立ち替わり会話することになる表世界や、その場の全員が一つの会話に参加することになる裏世界とはまた違っていた。

傍観者は黒子という役に変わり、実際に物語の黒子として傍観者よりも強い影響を世界に与えることができる。また、黒い頭巾を被りベールを下ろすことで、世界の中で傍観者とはまた違った存在の仕方をすることになる。黒子側から見た視界も変わる。

開演前の黒子についての口上や漂い方の練習も良かったなあ。ただの注意事項の説明なのではなくて、「あなたはこの世界においてどういう存在で、どういう振る舞い方をするのか」という切り口なのが好き。自分も仕事や生活、育児、どこでも共通することとして、「◯◯はしてはいけません」「◯◯はしないでください」「◯◯はダメです」と言うよりも「◯◯はできます」「◯◯という方法があります」「◯◯を是非やりましょう!」という言い方を極力したいと思っているのだけど、注意事項の説明一つとっても、そういう言い方があるんだなあ、ムケイチョウコクさんの何にでも前向きでポジティブな雰囲気はこういうところにも出ているのかも、と勝手に感動している。

登場人物の体験は、上に書いたような特定の人との関係を深めていく、という性質から、個人的にも反転エンドの時とは全く違った体験になった。
このことは半分糸山花枝さんへのラブレターみたいになってしまったふせで書いた。

2023.11.11
https://fusetter.com/tw/L8fptJTu

一部チケットの特典としてもらえる各キャラクターの前日譚小説も、「誰かを深める」という意味で効果的なアイテムだった。会話を含めた実際のコミュニケーションの中で入ってくる情報と、文字で書かれた、固定されたテキストをじっくり読むことで入ってくる情報はその質がけっこう違っていて、それぞれが補い合う感覚が面白かった。

それから、今作は特に「言葉数を少なく」が一つのテーマだったということで、言葉以外から受け取るものというのが多かったように感じた。
そのあたりは「小道具」と「位置関係」に焦点を当てて書いた以下のふせで触れた。

2023.11.15
https://fusetter.com/tw/w8ughK7p

そして忘れてはいけないのが、「演出効果やストーリーの内容などに関して、ご観劇にあたり心配や不安なことがあり、事前に確認をしておきたい方に向けて」公開されていた、「トリガー警告シート」。
letterpool同様、こういうものが存在するだけでも素晴らしいし、内容を読んでさらに感動した。役が抜けきらない人に向けて終演後にクールダウンのワークを行う、という取り組みも。
たしかにイマーシブシアターは、舞台作品と比べて参加者一人一人が受ける影響というのがとても大きい。特に役として世界で生きることになるムケイチョウコクの登場人物チケットは。

だからこそ、こういうトリガー警告シートのようなものとセットでイマーシブシアターが文化になっていってほしいし、その第一歩(たぶん)を今作でムケイチョウコクが踏み出してくれたことに感謝が絶えない。

参加者が、不特定多数の「観客」という存在を超えて、顔の見える存在になるのが、少なくとも現時点でのイマーシブシアターの大きな特徴だと思う。だからこそ、顔の見える一人として作り手から尊重されている、作品自体と同様にケアされている、と思えることも、いわば体験の一部になっていると感じる。家に帰るまでが遠足、ではないけれど、作品内外を通じてこの作品に参加して良かった、と思える体験。泊まれる演劇にしろムケイチョウコクにしろ、そういう素晴らしいものに幸運にも出会えたら、大切にしていきたい。

会場そば、夜の池上本門寺

さいたま国際芸術祭 メイン会場(おまけ)

最後に、「公演」でさえないのだけれど、12月にさいたま国際芸術祭のメイン会場(旧市民会館おおみや)に足を運べたのは、イマーシブシアターを考える上で自分の中でとても大きかった。

……が、字数が大変なことになってきたうえ、年末に書き上げるつもりが年も明けてもう正月7日も終わってしまいそうなので、これについては後日時間のある時に追記できればと思います。

【1月11日追記】
さいたま国際芸術祭(以下「さいたま」)のメイン会場、取り壊しが決まっているという「旧市民会館おおみや」は、芸術祭のディレクターである現代アートチーム目[mé]によって不思議な空間に変えられていた。
2階部分の壁を大胆に破壊しながら建物に「突っ込んでいる」入口。そもそも入口は一つではなく、順路もない。建物内の至る所を無造作に引かれた線のように横切る区切りあるいはフレームのような透明板、それにより混迷を極める導線。
壁の張り付いた蝉の抜け殻、床に落ちている黄色い靴下に、網に引っかかったバドミントンの羽。一心不乱に館内を掃除する人、配線を直している作業員、巡回する警備員、いつのまにか形が変わっている忘れ物のような上着。
明らかにおかしかったり劇的だったりはしないのだけど、どこか不自然な、「ん…?」と立ち止まって考えてしまうような存在たち。
いったんその世界に入るとすべてが不自然に見えてきて、きょろきょろしながら彷徨う人間たち。
そういう空間の中にアーティストの作品も配置されており、それらは空間と半ば同化しながら、ホワイトキューブに配置されるのとは全く違った形で存在していた。

旧市民会館おおみや

この不思議な空間に、一日だけ浸ることができた。
とっても楽しくて、不思議な魅力があって、もっと早く足を運ばなかったことを後悔した。でもどうしてこれをここに書くのか。

目[mé]を特集した『美術手帖』2024年1月号の表紙には、「「ただの世界」をつくる」と書かれている。

目[mé]が作ろうとしている「ただの世界」は、ある意味でイマーシブシアターが作っている世界と同じだ、と思った。一観客としての自分は、VoTにはじめて参加した時からずっとイマーシブシアターも「ただの世界」を作っているのだと思っている。

もちろん、フィクションはフィクションだし、設定が明らかにSF的だったり、会場に足を踏み入れれば非日常的な世界観が広がっていたり、Usyのところで書いたようにファンタジーの世界がすぐそばにある感覚があったりと「ただの世界」の対極にある世界だ(からこそ「没入」に意味がある)という側面もイマーシブシアターにはある。

でも、もっと大元の構造の部分というか、イマーシブシアターという発想の根本的なところには、「ただの世界」という発想があるような気がしている。

VoT初体験後にぶちまけた感想(このアカウントのほぼ最初のツイート)の中では以下のように書いた。

映画や漫画や小説、通常の演劇でも、作者が意図する演出のために物事はある視点から、ある範囲を切り取られて提示される。見る側はそこに込められた意図を解釈して物語を読み取っていく。何気ない物でも、アップで大写しになれば、見る側はこれに何か意味があるのだと思う。

登場人物の意味ありげな表情が描写されれば、読み手はそれに意味があるのだと思う。しかしイマーシブシアターの特に自由行動部分では、観客が手がかりにできるのは自分で能動的に得た情報だけ。どの角度から見るのか、どこをどこまで見るべきなのか、誰も教えてはくれない。世界は平面に無限に広がる。

その制約の中で謎めいた物語が展開されるという落差が、狂おしいほどたまらない。
自分で動いて謎を解く形式には脱出ゲームもあるけれど、圧倒的な「物語」がノンストップで進行しているという点が異なる。その意味ではあくまで「演劇」なのだし、もっと言えばリアルな現実世界だとも言える。

現実にも様々な出来事が同時多発的かつノンストップに進行していて、視点は切り取られずすべての情報が等価に浮遊しているから視点を選び取らないといけない。選び取った瞬間にその他の情報は遮断される。結果として自分と他者の認識には大きな差が生じる。
すべての出来事を体験できないvotはまさにこのもどかしく不完全な現実の写し鏡で、だからこそ怖いほどリアル。
そして想像力という今の社会において最重要と言っても過言ではない力が、ここで脚光を浴びることになる。謎解きをしない人にとっても、目の前で起きていないことへの想像力、過去への未来への想像力が不可欠になる。

「意味のない事柄」「無駄な事柄」もまた、脚光を浴びる。「メインストーリーにとって」「意味のない」「無駄な」ということ。ミステリー映画ではわざわざ映されない瑣末な物や人や行動が、突然等しく目の前に迫る。その時、メインストーリーだけが意味を付与する装置ではないということを知る。

これもまた、votが現実の写し鏡たる所以。

2022.1.17
https://x.com/niravotnira/status/1482927479866425344?s=46&t=NpWrTQ9H5ZQq1_hinG9SVA

VoTは、圧倒的な世界観と濃密な物語を備えていながら、同時に現実、「ただの世界」の写し鏡だった。
そしてここに書いたようなことは、逆にさいたまにも大体当てはまる。

様々な出来事が同時多発的に進行している。さっきまであそこに並んでいたはずの掃除用具がいつのまにか持ち去られている。そのとき小ホールでは警備員が巡回していて、蛇口から滴った水は今も流しに溜まっていて、階段では誰かが空き缶をスライダーで投球し、外の砂山は作業員の手で整えられつつあり、ステージでは何かのリハーサルが進行している。
その中を、自分で視点を選び取りながら、手探りで進んでいく。順路はなく、迷いながら行ったり来たりする。他の人が立ち止まらないところで立ち止まってみる。ふと天井を見上げ、ふと隙間を覗き込んでみる。
自分が見たものと他の人が見たものは同じではない。

見たものに何かしらの意図を感じ取るかどうかは自分次第で、そこに本当に意図があるのか、意図があったとしても意味があるのか、それは永遠にわからない。
というか、意図や意味が「付与されているかどうか」ということはどうでもよくなる。重要なのはそれらを自分という一人の人間が「見出すのかどうか」ということになる。主体が異なる。逆転している。現実世界もそうだろう。「5連続で赤信号に引っかかった」「茶柱が立った」「昨日咲いていなかった梅の花が今日は咲いていた」。世界が意図を付与しているのではなく、何かを見出すのか見出さないのか、それは自分自身が主体。

そしてそこに正解は存在しない。権威に結びつかない。
それぞれが見たものがそれぞれに正しく、合意形成にも向かわない。

権威に結びつかない、これは美術界におけるさいたまの、舞台芸術界+エンターテイメント界におけるイマーシブシアターの、構造の持つ本当に本当に重要な側面であり、革命だと思う。
作家や専門家が偉いわけでもなければ、監督や演出家が偉いわけでも、メディアや「運営」が偉いわけでもない。作り手と受け手の間にも、一方的な勾配があるわけではない。フラットな関係。ただただ「『贈与』の媒介」(『美術手帖』2024年1月号p.29ほか)がそこにはある。

そういう中にアーティストの作品が、芸術の美術の濃度の濃い部分が、散りばめられている。全体として熱い、「体温の上がっている」感じが満ちていて、その中に作品がある。熱球である太陽の中に、特に温度の高いスポットやクールなスポットが時々あるような感じ。
イマーシブシアターも同じで、世界は全体として熱を帯びている。その中に、散りばめられたパフォーマンスやコミュニケーションによって特に高い熱を帯びた部分やプロミネンスのような爆発現象が起こったりしながら、それらが常に変動している。

そしてこれらは「ただの世界」なのだと思う。
「ただの世界」はたぶん我々の認知のフィルターを通して感じている以上にもっともっとフラットで、同時に太陽のように予感に満ちた熱で満ちている。それはもしかしたら人間がいてもいなくてもそうかもしれない、というか、人間はあくまでその一部として世界に熱を与えたり世界から熱を受け取ったりしているのかもしれない。
さいたまもイマーシブシアターも、現実と虚構の間、偶然と作為の間、没入と演劇性の間を絶妙なバランスで揺れながら、自分にそういうことを改めて思い出させてくれるような気がする。

だいぶ抽象的で人に伝わりそうにない話になってしまった。

なんだろう、すっごく卑近な一例で言うと、VoTを体験してからというもの、家で夕飯を作りながら、ふとキッチンのシーンで流れていた音楽が脳内で流れることがある。シェフを思い出しながら、ノリノリで卵をといていたりする。
雨が降るのを見て、川乃雫さんに思いを馳せながら傘をささずに歩いてみる。
さいたま以後、どんぐりがたまたま3つ直線に並んでいるのを見たらもう一つ横に並べずにはいられない。
日常の中で起こるそういうことって、自分だけの「スケーパー仕草」なのかもしれない、みたいなこと、が、上に書いたことの一端を表す例になるかもしれない。

なかなかまとまりきらないけれど、まだ言語化しきれていない部分も多々あり、今後も事あるごとに考えたり言語化を試みたりしてみたい。

【追記ここまで】

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2023年、まわりの人に「イマーシブシアターがすごいんだよ!!」と言っても、まだ「なにそれ」「ゴーグルつけたりするやつ?」という返事が返ってくる。

2024年は、冒頭にも書いたようにイマーシブテーマパークが華々しくオープンする。
旅行情報誌『じゃらん』は、「2024年注目の旅トレンド」として「イマーシブ(没入)体験」と「ナイトタイムエコノミー」を挙げた。
https://www.jalan.net/news/article/776934/

つい昨日、日経MJ紙は一面でイマーシブを特集し、「2024年、エンターテインメント業界は「没入(イマーシブ)」の新段階に突入する」と書いた。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC222650S3A121C2000000/

来年の今頃はどういうことになっているのか、個人的にも「2024年イマーシブシアター振り返り」はどういう形になるのか、楽しみでもあり、ちょっとだけ怖くもある。いや、やっぱり楽しみだなあ。

自分の感覚に正直に、新しい没入との出会いを楽しみ、没入できる幸せ、幸運を、大切にしたい。

(2024年1月6日投稿 元記事@ふせったー

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