書くことは、私を言葉にしていくこと。
書くことは書いていないうちに変わっている。今週の土日は書く時間がなかった。と言うより、書こうとしなかった。平日と比べて、自由度が高い土日を過ごしているから、書く以外のことに時間を使ってしまった。こうして改めて書いていると、ああ、書く感覚はこんな風だった、と思いだしていく。
頭の中だけで考えているのと、こうして書きながら考えているのは、全く違う考えが広がってきて面白い。文章を書きながら考えていると、考えが前に進んでいく。書かれたことを忘れて、今のことに集中できる。
小説を書き始めるときに、小説のアイデアを頭の中で考えようか、小説をさっさと書き始めてしまおうか迷う。アイデアを考えていると、小説の形は頭の中でいくらでも変えられる。それは、考えていていくらでもアイデアを足したり、物語の工夫をしたりできて楽しい。でも、そうしているだけだと何も決まらない。結局、書き始めて、後戻りできない段階に進まないと、小説はすすまない。
書き始めると頭の中は静かになって、余計なことは考えていない。書いてしまったことを後悔することもあまりない。続きが思いつかないときもあまりない。だから、私は書き始めることがとにかく、何かを決めていく気がしている。書く前に何もアイデアがなくても、とりあえず書こうと思っている。
書いていて、なんとなく思ったことがある。私は、やっぱり書いているときの、自分の中に起こっている様々な感覚のことが気になるのだ。小説を書いていても、小説の中に「書く人物」を登場させたくなる。そして、その人に「書くとは何か」という感想をよく語らせたくなる。それは私自身の感想であるし、その小説を書かなければ分からなかった、身体の中の感覚である。
そうした感想は、とても内省的で、読んでくれる人に向けて語られたと言うより、自分自身で自分のからだの体調を述べているような、通じない言語のような性質がある。「おなかがいたい」と言えば、同じおなかがある人間同士なら、ある程度通じ合えるが、書くことに対しては、文体がみんなそれぞれ違うから、ちょっと通じているのか不安なところがある。
どちらかと言えば、私は読むだけの人より書く人の方が好きで、書く人の、その書いている瞬間の勢いや、書くことについてメタに語りながら、さらにそれを文章にしている文章が好きだ。他の人が書いた小説を読んで深く共感できたことはあまりなくて、自分とは違う何かがその人の文章を動かしている力を感じている。たまにそんな力に打ちのめされたくて読むことはある。しかし、それはめったにない。自分のからだを、うまく動かして、書くときのからだの快感を感じる事が大事なので、他の人の動きに惑わされると、うまくいかない。
今までふれられてなかったが、書くことは快感なのだ。書いている集中状態は、頭が余計なことを考えていないので、すがすがしい。さらに、スポーツをしたあとのような、「ああ書けて良かったな。」という達成感が、書いたあとにある。だから、それをまた味わいたいし、もっと気持ちが良くなりたい。スポーツと違うところは、書き終わった文章の快感が、あとになってまた、言葉とともに思い出せることである。自分で書いた文章は、自分でもよく覚えていて、頭の中で口ずさむように、また書きたくなる。
noteには書く人も集まっているし、書く人同士で、そうした書く感想を交換し合いたい。内容はよく分からなくてもいいから、お互いに一緒に運動をしたあとに褒め称えるような、そんな励まし合いもいいと思う。
さっきは内省的、と書いてしまったけれど書く肉感をどこまでも表現しようとすれば、結局は自分以外の誰かに読んでもらえるうれしさ、使っている道具や座っている場所、書く時間帯などにふれることもある。さらには、自分の思想や、生まれ育った場所、大切な人なども、書くことで生まれる言葉に関わっている。ごく普通に行われている自己紹介だって、言葉で話されたものだ。時間を書けて、書くと言うことは、自分とは何なのか、なぜこう書いてしまったのか、あるいは書けてしまったのかを、日常的な枠を超えて、丁寧に一つづつ言葉にしていくことなのだと思う。