書かれるものが過程であって良い
全ては過程だと思う。極論を承知で言う。完成というのも、次の完成に向かう一区切りを作るためだ。何かが、完璧な状態になることはない。どんなものにも、足りないところがあり、不完全なまま存在している。
だから、どうしても不完全さを受け入れる必要がある。完璧を目指すことよりも、どうやって不完全と折り合いをつけるか。そう考えている。むしろ、完璧を達成するまでこだわることができる機会はあまりない。
過程であって良い。というのは、ルールというよりも受け入れなければならない原則のようなものではある。しかし、そのような原則があることを意識していたい。だからあえて、取り上げておく。
原則に反して、私は何かを終わらせようとしたり、完璧なものを作ろうとしたりする。しかし、それはエネルギーを使う。また、完璧さを求めていると本当はしたくなかったことまでをしなくてはならないことが多い。
文章を書くことにおいて考えてみる。大きなことを一つの記事で書き切ろうとしたり、一つ一つの文にこだわってなかなか書き進めないときがある。過程であって良い。ということを忘れているのだ。そのときは、書くのに時間がかかる。見直したり、調べたりするからだ。また、書いても楽しくない。めんどくささがまさって、なんだか自分が書いている気がしない。
過程であって良い、ということは、完璧でなくても良いということであり、またわからなくても良いということでもある。ある物事について書くとき、わかっている状態で書かなくても良い。書きながら考えれば良い。答えが出なくても良い。間違っていても良い。
いい加減な文章のような気がするが、その通りだと思う。今日の今日、きちんとした文章を書こうとしていない。書いているうちに、何か書くべきものがわかってくるだろう。文章の無駄も削ぎ落とされていくだろう。だから、今日よりも明日、いい文章がかけると思っている。明日よりも明後日がいい文章である。だから、今日、別に頑張りすぎる必要はない。書き続ければなんとかなると思っている。
また、過程である。と意識すると、変化することができる。完成されたものは時間が止まっている。過程の中にいれば、今までがうまくできなかったらやり方を変えればよい。過程の中では、柔らかくなれる。変わっていくことを許すことができる。
過程であって良い。というルールで読む側は安心できるか。多分、できる。
書かれた文章が何かの過程である、と知るときっちり読む必要がなくなる。今書かれているものには、穴があって、これから補完されるかも知れない、ひょっとすると明日には正反対のことが書かれているかも知れない。そう考えると、全部を理解しようと頑張る必要はないだろう。今日理解できなくても、明日理解できれば良い。
さらには、理解する必要もないと言えるかも知れない。書く側も、過程である考えを押し付けようとはしないだろう。だから、読む側は受け止めるというよりも受け流す態度で接することもできる。理解していなくても、こういう文章があって、それを読んでいるだけだと考えれば良い。
読むこともまた、何かの過程である。
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!