等身大の言葉を書けるようになりたい
自分が今まで書いてきた文章の語り方が、今になって自分に合っていない気がする。
なんとなく、文章を書くことは、すごいことのようなイメージがあって、図書館にある本はちゃんとしていなきゃいけないとか、本屋さんで売られるような本を書く人はすごいとか、思われている気がしています。それが、書くことの敷居を高くしている気がします。そして、その敷居を越えようと勇気を出して書き始めた人たちは、「自分たちはまだまだ」とか、「なんか書いていると友達に言うのが恥ずかしい」と思ってしまうのではないでしょうか。
私も、最初は書く事が恥ずかしかった。誰にも、「書いている」なんて言えなかった。多分それは、自分の中での書くことのハードルを、あまりにも高く見積りすぎてたせいなんじゃないかと思うんです。その時の自分が知っていたのは、ちゃんとした本や教科書に書かれた文章だけで、普通の人がなにかを書くなんて、許されないことだと、勝手に思っていた気がします。
そうした敷居をとびこえて、文章の世界に入っていけたのは、やっぱり書く事が自分の中で大事だったからだと思う。でも、長く書き続けたいと思った時に、文章に対する敷居の高さが障壁になる気がする。毎日書くなら、毎日しっかり机に座って時間を作るとか、朝早く起きるとか。そうやって生み出される文章は全て、しっかりしていて、読むことはできるのだけれども、やはり均質になっていく。そして、続けられなくなったらバッタリと書く事が止まってしまう。
どこの誰が書こうとも、ペンを持って紙に文字を書けば書くなんです。キーボードのボタンを押して文字を映せば書くなんです。書き続けるためには、それだけでいい気がします。
もう少し、書く時間とその感覚を見つめ直してみたいです。やっとそう思えてきました。そのためには、文章らしい文章を書いて、自分の求めている高いハードルを無理して飛んだり、くぐったりする必要がありました。今は、自分が自分であること、をどれだけ文章で表せるか、等身大の語りを生み出せるかに興味があります。
この文章を書くのに、とても時間がかかりました。文章を見つめている時間より、書かない時間が多くて、やっと今日、書き終われそうです。文章に向き合えない時間もありました。それでも、明日こそは書く、明日こそは書くと思いながら過ごしていました。毎日書き続けていた自分からすると、書けない日があるのはストレスでした。でも、なんとなく言葉を心の中に溜めることができたと思います。そうして書けた文章は、その分ちゃんと自分の体を通ってきた感じがします。
書くことはいつも、そうした「明日こそ」を繋いでいくことなのかもしれません。書き始める前は全く分からず、終わりが見えてくるのは書いてからなのです。だから、書く時はわからないまま、明日こそは出来上がると、書いている本人でも気づかないぐらい、夢中で祈っているんじゃないかと思います。