書く感覚の違いについて
同じことを書いていても、書く感覚はいつも違っている。
言葉遣いによって、意味が同じでも読む感覚が違うことについては、前に考えたことがある。「りんご」と書くのと「林檎」と漢字で書くのでは同じ果物を指す言葉であっても、印象が違う。
それとは別に文章を書いているときの気分というもので、言葉の印象が変わる時がある。書いている感覚の違いである。あえていうならば、「りんご」とまったく同じ表記であっても書いているその時の気分によって感覚が異なる。
しかし、これは「りんご」のような一つの単語あたりで起きることではない。文章を書く、という行為全体にわたって起きる違いである。
昨日文章を書いている時の感覚と、今日、文章を書いている感覚の違いである。
今日はなんとなく言葉の出るスピードが速かったとか、構成がしっかりしていたとかの文章あたりでの違いは毎日感じている。それは、調子の良し悪しと言ってもいいかも知れない。
調子の良い日は、言葉に対する感覚が鋭くなっている気がする。前の文章の示している方向性を敏感に感じ取ってすぐに次の言葉を思いつける。言葉遊びのようなレトリックも思いつきやすい。そういう時は書いていて楽しいし、早く書き上がる。私は、限られた時間の中で書いているため、調子の良い時は文字数が多くなり、なおかつ短い時間で書ける。
逆に書くのに時間がかかっている時は調子が悪い時である。なんだか、その場でいちいち言葉を考えなくてはいけないような気がする。文体が体だとするならば、「重い」と感じる。決められた時間いっぱい使ってもまだ足りない時もある。構成が、ウネウネと蛇行していて、添削どころか編集作業が必要になることもある。書き上げた後も、納得いかないが、できてしまった以上仕方がない、と開き直るつもりで投稿している。
いつもそんな極端な状態であるわけではないが、その間に収まっていると言っても良いだろう。こうして、反省してみると、調子の悪い日は言葉それ自体が持つ流れをうまくつかめていない状態なのだと考えられる。言葉の力ではなく、人力で書いているような気がする。そうした時は、無理やり書いてみる。書いているうちに言葉の流れが掴める時があるからだ。しかし、流れをつかめないまま、だらだらと書いていると、上手くいかないことがはっきりしてくる。雑談のような、核心に迫れない考えが続いていしまうのだ。そのような時は、時間をおいて一から書き直したりする方が早い。
つまり、書けるか書けないかの違いはその文章の流れを掴めるか、掴めないかの違いであると言える。
イメージとしては、一本の線から始めるお絵かきのようなものだ。
はじめに紙に思いっきり線を描く。何か描きたい形が見えてくるまで適当に描いてみる。それがだんだん、自分の知っている物の形に見えてくる。「これはネコだ」と分かったら、ネコのように細かいところを書き始める。それが分かったらほとんど絵は完成したようなものだ。ネコならどこを歩いているのか、どんな模様をしているのか、後からどんどん描いていけば良い。
「これはネコだ」と形が見えるかどうかが、勝負である。もし、見えないままであったら具体的なものは描けず、抽象画になってしまう。これは必ずしも失敗ではないが、あまり狙わないようにしている。書きながら考えている以上、詩のような抽象的なものができてしまう時もあるが、そうすると「なんでもあり」になってしまってうまく探求できない気がするのだ。だから、書く前になるべく制約を科して形を制限している。
おそらく、私の中に文章とはこういうものだ、という考えがあるのである。その型があるから、「これはネコだ」と発見することができる。型をたくさん知っていると、思いつきで書いたものをちゃんと型として拾うことができる。ネコ以外にもたくさんの動物を知っていた方が、思いつきで描いた線に色々なものを見出せるだろう。
型を知る、とは文章の場合、読むことである。それも、意味的に読むのではなく文章の構造的に読むことだと思う。書き始めて、ただ読んでいる時よりも、文章の構造がよく見えるようになって、読むのが楽しくなった。文章の内容だけでなく「こういう書き方があるのか」と書き方を学ぶことができる。もちろん、内容と書き方はうまく組み合わされていることが多い。その組み合わせを知ると、自分の書きたいことを、どんな型に当てはめれば良いのかどうかを考え始めることができる。
その型は、文章の物理学というような現実世界とは全く違う法則で成り立っている。文字通り、紙に書くか、ネットに投稿するか、印刷するかという物理的な条件に依存することもあるし、書き手や読み手の心理状態、デザインまで関わる法則である。
今、私は、ものを投げてみてどのように落ちていくのかを模索している最中である。なるべく、たくさんの場所とたくさんの投げ方を試して、自分の落としたい場所に落とせるようになりたいと思っている。
あえていうのなら書く感覚とは、そうした別世界での身のこなし方のことである。