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書きたいことを書く

書きたいことを書けばいい。書きたいと思ったこと、それが書くべきものだ。それがつまらないと思ったことでも、くだらないと思えることでも、書きたいと思ったら書いたほうがいい。嘘でもいい、論理的でないことでもいい。とりあえず、言葉が浮かんだらそのままに書き進めてしまおう。

だんだん、「書きたい」というような気持ちも薄まっていく。どんどん書くことが、具体的になる。こんなことを書きたい。こんな言葉を書きたい。あの時間、あの場所で、書きたい。あの出来事を書きたい。それはみんな「書きたい」ではあるけれども、なんとなく書かなきゃいけない、という焦りとはちがう。書きたいことがたくさんあることは、なんとも言えず幸せな時間である。いくらでも妄想が進むし、ワクワクする。

それなのに、どうして書いている間は辛いことや、苦しいことがあるのだろう。それはおそらく、書いてしまったことが、書かないままであったほうがいいと後悔したり、幻滅したりするからだろう。

だとすれば、それを回避するには二つ道がある。一つは険しい道で、もう一つは開けた道とも言えないような道である。後悔したくないなら、後悔しないような立派な文章を書けばいい、というのが前者である。それは修行を必要とする。勉強しなければならないし、自分を思った通りに律しなければならない。

それは辛いから、別の道が用意されている。そして、そのほうが気楽で、誰もが実行することができる。書くことで、後悔したり幻滅したりするならば、書かれたことを受け入れられる自分であればいい。それは、下手だから上手くなるやり方ではなくて、下手だから下手なままでいい、という考え方である。

そもそも、文章に下手や上手いなどがあるのだろうか。素直に心のままに書き表された言葉に、そうした評価はふさわしいだろうか。私はそう思わない。下手に書いたのならば、そう書かれることに意味があったのである。

泣きながら文章を書いたことがある。嫌なことがあったその直後に、涙をノートのページに落としながら書いたことがある。当然、文字も汚いし、思いをそのままぶちまけただけの文章だ。構成も、表現も何も考えられたものではない。しかし、そのページの筆跡や涙で波打ったページを見るたびに私は、その時に起こったことと自分の感情を思い出すだろう。整然と印刷された綺麗な言葉よりも、私はその文章を愛するだろう。

だから、書くためには書く私たち自身が変わらなくてはならない。書く私たち自身がそれぞれの私を、書かれた言葉を受け入れなくてはならない。書くことで人を動かすなら、書くことで生きていく力を汲み取っていきたいなら尚更そうである。私自身が、柔らかく、素直に言葉に反応し、それを受け入れなくてはならない。

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たくみん
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!