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深いところでわかりあうこと
浅いところでもわかりあえてしまうからこんなことをわざわざ書く。
浅い共感と、深い共感がある。前者は直感的ですぐにわかること。後者は、複雑でなかなかわからないことである。
二人で同じものを食べていて「おいしい」とうなずき合う時、そこに共感がある。また、ずっと連れ添った友人の言葉は、自分の考えや信念とは異なっているが、彼がなぜそういうことを考えているのかわかる。
共感とは、必ずしも同じになることではない。例えば、友人の考えに共感するとは彼と同じ考えになることではない。食べ物に関しても、別のメニューを注文したとしてもお互いに「おいしい」と言い合うことで共感することができる。感じている味は違っていても、その場に一緒にいることや楽しい雰囲気をともに感じているのだと確かめ合うことができる。
共感することは生きることの充実とかかわっている。誰かと深くわかり合えた経験はその後も自分を支え続けている。不思議な安心感がある。まるで自分の中にもう一本しっかりした柱が打ち立てられたような。自分が揺らぎそうになるときは、自分の中にある誰かが支えてくれる。彼ならどうしているのだろうか、お互いにわかり合っているからこそ相談することができる。そのような人が一人でもいれば、生きることはよりしなやかになる。
一方、軽く「わかる」というような共感だってある。うんうん、ととりあえずうなづく。それだけで終わってしまうこともあるが、いきなり深く共感することは不可能である。時々、初めて会った人の言葉がすとんと腹の底まで落ちてきて、一目惚れのような「運命」を感じる時もある。しかし、たいていの共感というものは浅いことから始まる。
深いところでわかりあうことは難しい。絶対的に難しい。
何かを理解することは、単純に努力すればできるようなものではない。たいていの難しい課題だったり、問題だったりは能力や道具、方法などが解決してくれることがある。しかし、何かを深くわかることは、そんなことよりも地道な、ときに理不尽な努力を強いる。
わからないことがあるのは、自分が自分であるからである。また、何かをわかることができるのも、あなたがあなた自身であるからこそである。
直感的にできるもこととがある一方、元々ある理解や理論、体験をもとにして初めて理解できるものもある。「おいしい」という直感的な人間の感覚の基本的なところでは理解もしやすい。しかし、友人が抱えている信念を理解するには直感的ではあり得ない。理性的な人間的な理解が必要になる。そのときに頼りになるのは、本能的な感覚ではなく自分が持っている価値観だったり体験になる。自分の中にあるもの、自分が今まで理解してきたものをもとに理解するのである。
私たちはそう簡単に、物事を理解しないようにできているのではないだろうか。というのは、何かを理解するということは、自分を大切すること自分を信じることと矛盾することのように思えるからだ。かと言って何かを理解するためには自分の価値観が必要である。
今まで食べたことのない食べ物を好きになるためには、自分の好みや嗜好をいったん忘れて、新しい味を受け入れる体勢ができないといけない。そしてまずい思いをする覚悟も。小さい頃は、覚悟もなくがむしゃらに自分の全く知らない物に飛び込んでいけた。
しかし、「自分」というものが固まってくると何かを理解することができるようになる一方、どうしてもわからない物も増えてくる。
深い理解、人間への理解というものが、元々自分の中にある理解や価値観をもとに行われるものであるならば、理解できないものは、それらを全て覆してしまう危険性をはらんでいる。経験があると、理論や法則を見出すことができる分、理解できる物については理解の深さやスピードも早い。しかし、訳わからないものに遭遇したとき、今までの理解の枠組みや信念を捨てて、それに向き合うということができるだろうか。
人を理解したい、わかりあいたい。しかし、どこまでわかればわかりあうということなのだろうか。一人の人間が持つ複雑多様な価値観や信念を、今の自分でわかるところだけわかればいいのか。それとも、お互いにじっと向き合って、ぶつかり合ってまで理解しようとしなければならないのか。人を理解するということには様々な段階があるのだろう。
深くわかりあいたいと、向き合いすぎることがかえって理解を妨げることがある。そういう時は焦って理解しようとしている場合が多い。理屈でもって相手を理解したり定義しようとしている時が多い。しかし、わかりあうことは必ずしも理論的に相手を定義することではない。理を解すると書いて「理解」だが、理屈ではないしみじみとした共感もある。
理屈ではないのだから、難しい。そこに至る道もはっきりしない。唯一の方法は、一緒にいることぐらいしかない。そして、いつわかることができるのかもよくわからない。だから、理不尽なのだ。
向き合うということは、必ずしもじっと見つめ合うことではない。ともに生活することだったり、離れて心の中で想像することだったり、とりあえず何かを一緒にすることだったりする。向き合うということは一緒に生きることだ。
向き合う人は、たえず自分を変えようと備えている。絶えず自分を疑っている。常に揺らいでいるが、倒れずに強くしなっている。何かを待っている。そして常に、そうやって自分を確かめている。
わかる、という行為には終わりがない。世界がどこまでも分割可能なように、人はどこまでもわかることができる。1日1日、少しづつ自分をすり減らして、すりへったぶんを誰かにもらって。自分にないものと自分を交換していく。ゆっくりと変わっていき、ゆっくりとわかっていく。近道はない。ただ、わかろうと過ごした時間だけが希望である。
深いところでわかりあうことを、私はそれでも目指したい。
自分に飽きたくないからだ。世界にいつまでも驚いていたいからだ。誰かから受け取る愛にいつまでも、心動かされたいからだ。そして、昨日は愛せなかったものを愛せるようになりたいからだ。
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