文章を読むためのエネルギー
文章を読むためには、エネルギーが必要だ。
文章を読むことは、単純なエネルギーのやりとりではない。書き手が書くことに使ったエネルギーを読み手がそのまま受け取るような単純なものではない。
文章を理解するためには、文章に対して自分を開いてゆかなくてはならない。
それは、共感という形であったり、書き手の論理を追うという形であったりする。
それにはコストがかかる。
自分とは全く違う境遇の人の文章や、複雑に入りくんだ論理を追うのは、自分のよく知っていることが書いてある文章を読むのよりも難しい。また、物理的に目を動かして、頭を働かせて、読むという動作に使う大変さもある。
読み手はそうしたコストを払えば払うほど、書き手が費やしたエネルギーを自分のものにすることができる。
そこから、いい文章とは、ただ単純に読みやすい文章だとは言えない。
読み手が払うコストに対してきちんと応えられる文章がいい文章だ。
簡潔に、読みやすくまとまっている文章は、もちろんコストに対する効果が高いと言える。
また、読みにくくても、「読む価値がある」と読者を引っ張っていける文章だっていい。
やっぱり書く人にとって、読む人はエライのである。書く側はいつも、読む人に対して読みやすく意味のあるものを提供したいと考えざるを得ない。
いつか読んでくれる人と長い長い旅をしたい。私も行ったことのないような遠い場所まで一緒に読んでくれる誰かと旅をしたい。そうすることで私も初めて見ることができる景色があると思うから。
毎日少しずつ塵を重ねるように書く。そんな書き方がnoteでは許されている気がする。一日一歩ずつ進む旅。
どうお気軽にお付き合いください。
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!