小さいときに考えたこと
「ずっと話していると息が苦しくなるんだよ」その時のひらめきの感触をよく覚えている。とても小さい頃、おばあちゃんと何気なく会話をしていた時だった。話していると、なんとなく息が減っていることに気がついた。また、話終わった後に息を吸わないと苦しいことに気がついた。
おばあちゃんは、「そうだよ」と私が正しいと認めてくれた。私はやっぱりそうだったのか、と納得した。
「ずっと話していると息が苦しくなる」ことは、その時から私にとって当たり前のことになった。逆に言えば、それ以前はそんなことを全く知らなくて生きていたのだと言うことである。と思うと少し不思議な気がする。
それ以前の私は、「話す」ことが同時に「息を吐く」ことだと知らなかった。
もし話すことが息を吐くことが関係ないのなら、ずつとペラペラと話し続けることができるはずだと私は考えた。しかし、話していると息が苦しくなるのを感じて私は、もしかしたら話すと同時に息を吐いているのだと推論したのだ。
他の動作は息をしながらできて苦しくないのに、話すと言う動作はずっとしていると苦しくなる。それが不思議だったのだろう。
今はそんな風に不思議に思うことはない。苦しくならずに話すこともできる。自然と息をつぎながら話すことができるようになった。
かといって話すことが息を吐くことだとはあまり意識していない。苦しくなるほど話たら思い出すかもしれないが、普段はほとんど無意識に話すことと呼吸を調和させている。
「話していると息が苦しくなる」と言うことは、自分が初めて自分の力で不思議を解き明かした瞬間だった。だからよく覚えている。
中学生の頃。
私はよく寝る前に、「自分が死んでしまうこと」が怖くなって寝床から飛び出すことがよくある。怖くてそれ以上考えることができなくなってしまうのだ。また、逃げるように今に走り込んで水を飲む。そうすると治るので、考えることをやめてまた寝床に戻る。今でも時々、そうなる。
中学生の頃、私はその後もう少し考えてみた。布団の中で、なんとか自分を納得させようと理屈をこね回した。
結果的にでた結論は「誰も死ななくなったら世の中が成り立たなくなる」ということだった。人が死なない社会では楽しいことも何もない。だから、仕方がないけれど死ぬことに納得するしかない。
今は、死ぬと言うことに関してそのように考えていない気がする。自分が死んだらどうしようと思う時があるが、純粋に疑問なのであって考えたいから考えているようなものだ。しかし、寝る前に突然に襲われた恐怖に対して納得しようと考えた自分の方が切実だ。有意義な問いではない。ただ、納得するための考えだった。考えたくもないのに、考えなくてはいけなかった。
理屈で自分を沈めることをしたのはこれが初めてかもしれない。
今まではそうではなかった。おもちゃをねだる時とか、「また今度」と言われて感情を抑えて、忘れるまで待つ。と言うことぐらいしかできなかった。論理的に自分を納得させると言うことを初めてした体験が「死ぬこと」に納得する布団の中での考えだった。
それからは、自分を抑える方法として理性的な考えを使うことができるようになったのかもしれない。
とにかく必死で考えていたと思う。考えるのが楽しい、とは思わなかった。
考えるとは、問題を解決したり、誰かに何かを伝えるたりするためにすると言う印象がある。しかし、自分を納得させるために考えることもある。「死ぬのが怖い」と言う悩みを他の人に打ち明けたりしたことはなかった。家族にも言うことができなかった。だから、私はその時考えるしかない状況に追い込まれていた。その状況から抜け出すために、私は必死になったのだ。