2020/12/01
書き重ねる書き方の新しい形が見えてきたのでここにまとめたい。
まずタイトルから。シンプルに日付だけにした。これからは、特定のテーマや言葉をタイトルに込めないことにした。これは文章中の言葉が全て並列に扱われ、また記事も日付によって並列に扱われる。
どうしてこんな読みにくいことをするのか?
書き重ねるやり方の構造の話をしよう。今までは、一ヶ月に一つテーマを決めてそれについて毎日書く、ということをしていた。だから、タイトルは「書き重ねる:2020/12/01」のように、テーマと日付が一緒に書き表される形式をしていた。しかし、散歩中にふと考えると、私は特に「書き重ねる」ということについて書きたいわけではないと気がついた。
ただ、今日、書いていたいだけなのだ。だから、「書き重ねる」というタイトルをつけるのは正しくない。だから、今日の日付だけを、「今日、こんな文章が書かれた」という意味で今日書いた文章に貼り付けておくことにする。
日付だけにしたからと言って、全く整理しないわけではない。noteには、「マガジン」という素晴らしい機能がある。だから、内容によってマガジンを作って、記事を書いてから「これはどのマガジンにふさわしいか」と考え始め、マガジンに組み込めばいい。そうしたら、書きかけのマガジンが残ることはないし、書く前に「これはこういう文章だ」と自由を損なう考え方をする必要はなくなる。
かと言って、頭の中でいくつもマガジンを作っておいて毎日書いてから、整理する作業するのは面倒くさいので、月毎とか、一週間後とか、時間によって分配する方法を取ると思う。要は、日付だけで書いているから、その文章を後から意味付ければ如何様にもなるのである。
あ、さっきの文章が結構大事だ。
「日付だけで書いているから、その文章を後から意味付ければ如何様にもなるのである。」
そう、その通り。言うなれば、「書き重ねる」コンセプトは、今まで「書き重ねる」というタイトルが本体だった。しかし、これからは「日付」が本体になる。書き重ねているうちに、「書き重ねる」ことが自重で崩れて、その代わり「毎日書く」という運動だけが、ここに残った。それに、決まった意味がなく、後から意味を考えればいい。だから、タイトルも主張もなく「日付」だけを文章に付けることにした。
やってしまえば、シンプルで、日記を書いているようなものだ。むしろ、noteはブログを書くプラットフォームだと私は理解しているので、めぐりめぐって「ブログらしい」形態に落ち着いたと思っている。だから、これを書く前に納得しているし、さっき考えたことをそのままここに文章の形として書こうと思った。
自由に書くこと、書き続けること。それが今の、少なくとも今日の私にとって一番大事なことだ。そこから、読まれることやわかりやすさ、伝えたいことと広がってゆけばいい。まず、自由に思い切りやれなければ外に言葉を向けることができない。逆に、自分の言葉が見つかるまではゆっくりと、自分と向き合って見つめていたっていい。
じゃあ、なんでそれを投稿するのか? というツッコミが私の中で聞こえてくるが、多分こういうのを「内側」のつもりで書くのが、面白いんじゃないか? 読みたい人がいるんじゃないか? と私は反論する。初めからみんなに見せる顔で書いてしまったらそれは、ブログっぽくない。いきなりブログっぽい、という概念が私の中でテーマになっているのだが、プログっぽいというのは、あの負のオーラのような「読まれるとか面白いとかどうでもええ、書きたいこと書かせろや」という物だったり、「人格とか普段の私を離れた、打ち明け話だけで共感してくれる人が欲しい」みたいな、内側だけで通じるあの感じである。それは、「内側」であるのにもかかわらず、透明で外から見られるような、ある種グロテスクに、ひっくり返ったような不思議な空間である。初めから、みんなに言えるようなこと、あるいは、正しいとされること、一般的なことを「外側」に向けていうようでは、そうしたブログっぽい「負のオーラ」は出てこないだろう。
「負のオーラ」については、前々から書きたかったので、ちょっとここでも言及しておこう。段々書いてくると、世間のことがどうでも良くなったり、期待される文章から外れて、変なことを書きたくなってくる。そうした文章から発される独特の雰囲気を「負のオーラ」と私は勝手に読んでいる。私の文章からもそうしたものが漂ってくる時は、たいてい字面を見ればわかる。洗練された形はしていなくて、どす黒い文字列の塊のようなものが、ずい、とおいてある。ちょっとした重力を感じるぐらいである。読まなくてもわかる。同じような雰囲気の人もなんとなくわかる。気軽には読めないので、大抵の人には無視される。しかし、スキがたまに一つか二つぐらい付く。そんな文章である。
しかし、大抵のそんな文章のごつい見た目はこけおどしで、本当に言いたいことはその中の二行ぐらいのものだ。しかし、その二行を読んでくれた人に見つけてほしいのだ。わざわざ、「こうだよ」とわかりやすくいうのではなく、負のオーラをかき分けて見つけてほしい。負のオーラは、たやすくわかってほしくはないその確信部分の二行を、いい加減な理解から守る防護壁にすぎない。本体ではない。本体は、その内側にある小さなクリオネのような心臓である。わかる人は、透視する。内臓を曝け出した深海の生物のように愛おしく思う。
話を戻すと、「書き重ねる」やり方を、変えようと思う。いや、変わったのではない。これからの私の文章の根底部分を、「書き重ねる」実験はさらけ出した。毎日書いていたい。書いていたい。書いていたい。書いていたい。それだけ。それがあまりに強烈すぎて、内容も、その他の大事だと思っていた、私が大事だと思い込んでいた何かを置き去りにしてしまった。
だから、朝起きて、今日がまた来るという理由だけで、書いていようと思う。書き続けようと思う。もっともらしさも、素晴らしさも、必要ない。誰かに認められる必要もない。読まれる必要もない。いや、読まれることを信じるようになった。強く、強く信じるようになった。言葉の中に、確かに私の鼓動が宿っていることを。その鼓動を、感じ取ってくれる誰かがどこかにいるということを。それは、書きたいこととか、正しいこととかをいう以前に、共鳴している。
だから、朝起きて、今日がまた来るという理由だけで、書いていようと思う。
これからもよろしく。