散文的定義集
散文的定義とは
散文的定義とは、散文で物事を定義しようとする試みである。私たちには(きっと)いろいろ知りたいことがある。知りたくても、大抵はわからないことが多いが、それでも知りたいことがある。
そこで、気になる物事に、自分で辞書的な解説文を書いてみる。
その解説文は思いつくままに書く。自分の頭の中の辞書を、ここに記す。
定義をして終わらせるわけではない。定義することの失敗を通して、更なる考えを進める。読者の思考を刺激する。散文的定義には、そもそも定義できないものばかりである。
人生とは
わたしたちは人生を、生きている。いや、人生に生きているのではなかろうか。「生きる」ということは、どこに向かってもいいはずだから。カップラーメンに生きる。トイレに生きる。公園に生きる。スケートリンクに生きる。この文脈で、人生に生きる。
しかし、結果的にみんな人生という。おそらく、カップラーメンとか、トイレとか、細かいことを記述するのがめんどくさいからである。そう、書くことは基本的にめんどくさい。
めんどくささが共鳴して、「人生」という適当な言葉が生まれる。
「人生の目的がわかった」という言葉は、めんどくささの果てに開き直った感じがする。「人生」という言葉の、えもいわれぬは迫力と、納得感は「めんどくささ」には勝てないわたしたちの性から生みでている。「人生」と言い出すと、「ああ、この人もだんだんめんどくさくなってきたのだな」と思う。
この欄で、私も一応「人生」を語るつもりだったが、めんどくさかったのでこんなな記述になった。
愛とは
愛。愛。愛。愛。愛。愛。あい、あい、あい、あい。
愛ほど手垢に塗れた言葉はない。
だから、アイラブユーというためには常にひと工夫がいる。和歌を送ったり、noteを毎日投稿したり、絵を書いたり、ラブレターを送ったり。
そうしているうちに、何が愛だかわからなくなってくる。よくわからないから、「愛」とまた言いたくなる。「愛」というたびに、何かを確かめるような不安な感じになる。だから、あまり、「愛」と言いたくない。
でも、どこかで「愛している」と言わなければ伝わらないこともあるから厄介である。「愛」なんてものはないと思っている派からすれば、よくわからない言葉で、よくわからない告白あるいは誓いをしなければならないことになる。
好き、とも違う。よく話題がなくなったときに、「恋」と「愛」はどう違うと哲学を始める人がいるが、結局よくわからない。
好き、と表明することはチョコを送ることだろうか。体をくっつけることだろうか。頬を赤く染めることだろうか。いずれも「好き」という言葉からかけ離れている。やっぱり、「好き」とか「愛」とか「恋」に憧れている。だから、自分のこの胸の高鳴りや、相手への思いが「愛」であって欲しい。
なぜなら、「愛」についてはみんな語ってきたのだから、そのストリームにのって安心したい。手垢にまみれているから安心できる。わかりやすく素晴らしいもの。
強い人は「愛している」という代わりに、何も言わずにじっとその人を想うのではないだろうか。でも最終的には、「なにを意地張ってるの」と冷やかされて、「アイラブユー」と言ってしまう。
恋とは
この記事を書き始めた早々になって、話題がなくなり、「愛と恋の哲学」を始めてしまった。まあ、いいだろう。
愛に比べて恋は、手垢にまみれているようでまみれていない。恋は、その人独特の心の官能であって、どうしたって一般化できない。一般化を拒むような方向に進むことは、それだけで恋している。
たくさんの人が似たような服を着ている中で、一人目立つ服を着ている人は恋をしているとわかる。
人気のないものこそ好きになりたい、でも、その感情もありきたりなんだよな……と悩み始めると恋をしている。「ありきたり」と「めずらしい」のどちらにも収まりたくない。いかなる言葉の定義や物語から外れて、自分の手で、できれば自分だけのオリジナルのやり方で恋したい。ロックンロールは恋であるし、noteにひねくれた記事を書きたくなるのも恋。恋なんてしてもしょうがないと思うのも恋。
それと普段いう「恋」とはどんな繋がりがある?
「恋」は、秘められる。話された瞬間に、みんなのものになってしまうから。恋を形にしようとか、成就しようとか思うと、恋は終わりに向かい始めている。
秘めて秘めて秘め続け、恋は永遠になる。世の中に溢れる「幸せな恋」のようなステレオタイプは気休めにしかならず、やっぱり最後はどうにか自分で抱えていないといけない。
恋に負けるのは自分で手放す時であるし、恋に勝つのは墓場まで持っていく時である。人生をかけた勝負。相手は自分しかいない。勝ち負けを知っているのも、自分しかいない。燃える。
コーヒーとは
コーヒーとは、茶色い以上にどす黒い苦い液体である。あったかい。ある人には良い香りと味をもたらす。
気休めに使われることが多く、午後、昼寝をしたいができない時に、眠気を覚ます効果があるので、コーヒーを飲む。すると、なんとなく起きていられる気分になる。なので、昼寝をする代わりに本を読んだりnoteに記事を投稿したりして過ごすことができる。
朝にも飲まれる。これは、人類にとって午後だけではなく、一日が気休めになってきた証拠である。朝からゴロゴロしていたい代わりに、仕事をしたり、誰かと恋愛したり、映画を見に行って一人で泣いたりする。
気休めの方が本編のような気がするが、気休めなしに生きようとすると常に考え続けなければいけないので、大変である。
音楽とは
音楽を聴くと、体が踊り出すことがある。私の音楽の先生は、「音楽はケツで聴け」と言っていた。お尻から動き出すリズムで音楽を感じないとそのノリはわからないようである。
さっそく実践してみると、自分が何を聞いているのか、歌詞の内容、曲の構成など、音楽のほとんど全てがどうでも良くなり、ただ恍惚とした気分でケツを振っている自分に出会った。
これは似ている。文章を書くことに。「乗れる」こと、「気持ちいいこと」があれば、どうでもいい。恐ろしいほどにどうでもいい。
どうでもいいから、さまざまな歌詞や素晴らしい音楽を作る営みが生まれるのだろう。
文学とは
文学部じゃないので良くわかりません。文学部では卒業するために小説を書いたりするようです。ということは、一年生の頃に小説を完成させれば卒業できるということかしら。
ともかく、文学に目覚めるという言い方があるみたいです。文学に目覚めるということは、各地で確認される現象のようで、今日もいろいろな青年が文学に目覚めているでしょう。文学部とか学部は関係ないですね。むしろ関係ない学部なのに、目覚めてしまった人はずっと「卒業」できずに自分の文学を追求してしまうようです。文学の認定制度は文学賞とかしかないので、ほとんどに人が賞を取らずに自分の道を行っているようです。文学の世界があるようですが、みんなそれぞれ自分の道を行っているから、あまり仲良しだとは思えません。
もし、文学に目覚めてしまったらどうするか。……お気の毒ですが治す薬はありませんので、各自自分で治療するか、こじらせるかですね。まあ、こじらせても死なないので、好きにこじらせたらいいのではないでしょうか。
よくわからないので、敬語で書いてしまいました。
猫とは
猫とは毛むくじゃらの可愛い動物です。かわいいのに媚びないところが、さらにかわいいですね。
そこに憧れる人間も多く、さまざまな人がさまざまなあり方で、猫を愛でています。わたしもそれにあやかろうとして、出来心で猫をnoteのアイコンにしました。完全に、猫をかぶってますね。
猫であるという設定なので、「スキ」をされると猫語で喜ぶことになっていますが、最近リアクションを変えていません。今日あたり変えてみるか……。
猫であるわたしが喜んでいるのか、わたしのなかの猫的なものが喜んでいるのか。
猫後で文章を書いてもいいのですが、書いているときはあまり猫を感じていないので、なんだか後者のような気がします。
とりあえず、猫はかわいいと思います。
書くとは
頭に浮かぶ、あるいは心に浮かぶあるいは浮かばない何かに従って何かを何らかの形で表現すること。
以下の場合はどうするか。
頭に言葉が浮かんだが、文字ではなく音楽にしてしまった場合。
答えは、それも「書く」です。
頭に言葉は浮かんでいないが、キーボードに間違えて触ってしまって、「も」と入力された。
答えは、それも「書く」です。
頭に言葉が浮かばず、文字でもなんでもなくあくびをしたり、まばたきをしたり、昼寝をしたりしているうちに人生が終わってしまった。
答えは、それも「書く」です。
哲学とは
これも哲学科ではないので良くわからない。「哲学とは」と考えることがもうすでに「哲学」になってしまうのでタチが悪いですね。どうやっても自分の土俵で勝負したがるタイプ。
こっちは、公園でデートしたいのに、「いや、いいレストランあるよ!」と自分の展開に持ってくタイプ。というわけで、哲学したもの勝ちですね。
なので、「なにいってんの」と哲学をバカにする手合いもありますが、ちょっと可哀想なのでやめた方がいいでしょう。哲学さんは、「なぜばかにされてしまったのだろう」と考えてしまいますから。
おそらく、「哲学」というのはその態度のことで、「考える」具体的な動作とは切り離して考えられると思います。だから、「考える」ことに集中すれば、哲学のことは忘れられます。いろいろな人がいろいろな自分の土俵であれこれ言ってますが、そんなことは知らなくても「考える」ことはできます。
お湯とは
お湯とは、だいたい60℃以上の温かい水のことを言います。
ちなみにお風呂のことも湯といいます。もあり同じ「ゆ」という発音ですが、こちらはだいたい40℃ぐらいの温度です。でも、体で感じる温かさはだいたい同じなので、温度のことはわすれても大丈夫。
純粋な飲むためのお湯を「白湯」といいます。どうして透明なのに、「白」湯なのか。わたしの解釈では、酔っていない人の事を、しらふといいますが、その「しら」みたいなものです。酔っていない、何も入っていないただのもの、ということが「白」になるみたいですね。
これは相当面白く、よく考えてみれば何かが「無い」ということは黒いイメージでしたが、実際は「透明」とか「酔ってない」というような状態から「白」がイメージされる。
宇宙はダークマターでいっぱい、という噂がありますが、身の回りを見てもあまり黒い謎の物体は置いてありません。名称を変更するべきで、「ホワイトマター」がいいですね。
noteのエディター画面もほとんどが白いので、宇宙の実際を反映しているといえます。文章の余白って、何が何だかよくわからないでしょう。それなのに、ぽこぽこと言葉が生まれていきます。
散文とか、随筆というのは、そうした「ホワイトマター」に満ち溢れた宇宙の法則を追求する物理学のことです。といっても、理科系ではなく体育会系です。ひたすら書かされます。目と指と腰にを大事にしてくださいい。いい姿勢で書きましょう。
それではみなさん、今日はこのぐらいで。
ごきげんよう。
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!