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書く事は肉体労働である

 心よりも、体が書くことに向かっている事が大切だと思う。特に、書くのではなく書き続けるならば。
 書き続ける精神は書くことによって日々を回す。書かなければ今日この日は、始まらない。
 しょうがなく、書き始める。本当にしょうがなく。書けば書ける事だけは知っている。じっと我慢して椅子に座り、指でキーボードを叩けば、文字列が出来上がる事は知っている。気に入った言葉が出てこなくても、書いて消してを繰り返していれば、いつか心の方から言葉を受け入れることを知っている。
 それ以外は何も知らない。何が出来上がるのか。最終的に言葉が何を訴え始めるのか。それを読んだ人が、どんな顔をするのか。
 そう、知らなくても書く事ができるのである。書いてしまえるのである。
 その究極的なところを率直に言ってしまえるならば、書く事は肉体労働である。椅子にじっと座って、指を動かすだけの肉体労働である。指よりかは、心臓の方がよっぽど働いているかもしれない。動くことのない脳という神経の塊に、一生懸命、重力の働く向きとは逆の方向に血液を送り出している。書いている方はそれを邪魔しないように、だらりと力を抜いて最小限の力でキーを押すのみである。
 書く事は、心のこもった作業であると言ってしまいたかった。しかしそれは、ちょっと重い。心という得体の知れないものを、毎日動かそうとして書くのはつらい。だから、心よりもよっぽど信頼できる言葉を頼りにして書いている。よっぽどと書いたが、どのくらいのよっぽどか知れない。目に見えない物の代わりに、目に見えるようになったぐらいのよっぽどである。相変わらず、重さもないし匂いもしない。
 おまけに不機嫌なら不機嫌と正直にいう心と違って、言葉はいくらかむっつりとしている。本当は怒っているのに、いつもと変わらない顔でぺたりと画面に横たわっている。
 怒っているのに、それを表面に出す事ができないから、言葉の感情はその背景に海流のように静かで止まることのない確かな流れとして感じられる。
 寸分たりとも動く事ができない言葉という事実のしわ寄せに、複雑でどうしようもない感情がのたうちまわっている。
 誰が、「かなしい」という言葉を発明したかは知らないが、私たちは「かなしい」と言うことで、誰にもわかるはずのない悲しさを慰める。本当は、いい得るはずのない悲しさを言う。そうするより他に、泣くしかないのだししょうがなく「かなしい」と言う。
 聞いている方は、気軽でもあり恐ろしくもある。この言葉の裏にどれだけのものがあるか知れない。いかにも流暢に書き連ねられた文章よりも、不器用な言葉一言が、人の心を刺す事がある。
 私たちは、言葉が完全ではないことを知っている。言われたものが、言われたままでない事を知っている。当たり前のように、言葉を疑っている。言葉を探そうとして見つからなかった。言おうとしても、言えなかった。言葉を用意してきたのに、いざ言おうとするとそれがどうも嘘のような気がする。私たちはその度に言葉に裏切られる。そして、その度に言葉に期待する。言葉の方は、知らぬ顔である。
 そうだから、心のままに言葉を動かす事ができると言うと、嘘になる。心のままと言う言葉こそ、一番信用できない言葉である。
 そうだから、書く事は肉体労働である。見ることのできない心に、従っているように見せかけて反逆する行為である。どこまでも、この体で書く。書きようのない私の心が産んだ言葉を、私は私の言葉だと言わなくてはならない。私の心ではなく、この指で押し込んだ私の言葉だと言わなくてはならない。

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たくみん
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!