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質より量、量より動。

質を求めている時間と労力があるのなら、とにかく書けばいい。と言うのが「質より量」の言い分である。

未来に何が起こるかわからない、予測不可能な状況で有効だ。とにかく書くしかない。文章の世界は、現実世界のリアリティーや物理法則が通用しないから、とにかく書いて慣れていくしかない。慣れも実力のうちである。まずは、量を積み重ねること。

そのときに思い描くイメージは、生物の細胞である。一つ一つの細胞は人間について何も考えているわけではない。真面目に、自分に科された仕事を淡々とこなしているだけである。しかし、その集まりは結果的に一つの生物の個体を作り出している。

予測が成り立たない、と言う絶望からではなく、自分の予測を超えたものが作れるかもしれない、と言う希望から書き進めていきたい。自分の言葉や、文章、そして書く営みの一つ一つはそれで完結している。しかし、その集合体としての存在がそれ以上の価値を持つはずだと信じている。

書く、と言うことが現在の自分の肉体となるならば、積み重なるものでなくても良い。代謝を繰り返し、過去の書いたものを排出し、自己を保ちながら新しくなっていくものだ。その動きの中で、自分という像が浮かび上がってくる。

建築物のように、土台から積み上げていくメタファーよりも、食べたものが有機的に結びついて入れ替わっていくような生物的なメタファーの方がアイデンティティを説明するのにふさわしい。築くものではなく、生きているもの。固定され、線を引かれるものではなく、刻々と変わり鼓動するもの。それが私であり、あなたであると言うことだ。

質より量。そして、量より動である。動くこと。立ち去ること。積み上げないこと。捨てること。しかし、生きていること。血が通っていてあたたかいこと。

文章は書いた瞬間に死ぬ。一瞬にして過去のものになり、読者のものになる。永遠に凍結された自分自身を作り上げようと思うのもいいけれども、それは難しい。そして少し退屈だ。

目の前で話された言葉のような、生きているものが欲しい。そのときに、全ての決まり文句は邪魔になる。今まで書いてきたものが自分を鈍重にさせる。既存の知識が、目の前のリアリティを汚す。

心臓の鼓動のように、細やかに蠢くこと。それが、生ある言葉を生み出すことにつながる。ただ、今の自分を描写していくこと。それだけでいいのだ。その今が、過ぎ去ればまた書けばいい。書き続ければいい。

書く。と言う漢字が書物を積み重ねる、という起源を持つならば、私は「かく」ことを提唱したい。今、私が書いているようにディスプレイの上に映る実体のない言葉を積み重ねる。明日になれぱ忘れられる文章。重さのない言葉。

毎日、同じようなことをかく。静的な「書く」の空間ならそれは同じことを言っているにすぎない。しかし、動的な「かく」の空間においては昨日書いたものと、今日書いたものは、内容が同じであっても全く違うものである。

積み上げて何か別の自分になろうとするのではなく、今自分であること自体の驚きをかく。変わるためではなく変わらないために書いているのかもしれない。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!