行間。文章の建築学。空間デザイン。
noteで文章を書いていて、いまだに慣れないものがある。それは、行間の感覚が手書きの文章と明らかに違うということだ。書き手がいかようにも操作でき、行間の様々な文章が混在する中で、自分の立ち位置を見つけなくてはいけない、という難しさがある。
無視して、自分の書きたいように書くのもいいけれど、やはり全く影響を受けないということはあり得ない。パソコンにそのまま打つ、という環境。幅広い行間のある文章。自分の文体が変質し、書けるものも書き方も、考え方も変わっていくのを感じる。
さて、行間とは何か。それはつまり、文章によって作られる空間である。そのまま、空間のメタファーが通用する。
ウェブにおいてある短く簡潔な情報提示は、その見た目に反して「行間」は狭い。
狭いからこそ、見やすくするための文章と文章の幅を広くとるという視覚的なレイアウトが成立する。
一本道の廊下のように考えたらいい。一人分が歩くためだけの整理された空間。迷いようがなく頭から読みさえすればわかるようになっている。一本道なので、文章をブロックごとに分けて配置しても、分離されている感覚はない。むしろ飛び石のように、ぴょんぴょんと小気味よく飛んでいける。
そのような文章は、書き手が既に知っていることを読み手に一方的に伝えるという垂直な構造になっている。読み手も、ただ情報を短い時間で知ることがウェブ上に存在する文章を制するための条件である。
しかしnoteには、そのような書き方、読まれ方以外にも可能性があると感じる。もちろん既存の、簡潔で迷いのない行間の文章もそのまま通用する。それに加えて、広大な文章空間を持つ長文や、様々な短い廊下をプラレールのようにつなぎ合わせて巨大な都市を作り上げる構造もあり得る。見出しと目次、マガジンのような機能を使えばいくらでも可能だろう。
ということは、note上には、様々な行間の文章が混在することになる。自分なりの行間感覚を身につけることは一層重要だろう。読む上でも、行間を読むことができるようになれば文章の違った読み方を楽しめるかもしれない。
行間は面白い。その人の身体感覚そのものだ。
しかし、行間を読め、と言われてもピンとこない人もいるかもしれない。行間なんて見えないし、そもそも無いし。人の心みたいにあるのはわかるけど、正しいことなんてないんじゃない? そう思うかもしれない。
私なりのやり方を紹介しよう。
文章を一つの「部屋」だと考えることだ。行間を捉えることは文章における建築学であり、空間デザインすることだ。
部屋を作ることを考えて欲しい。その時、私たちは部屋の空間を作っているのではない。部屋の壁を作っている。部屋の壁を作ることにより、空間を囲っているだけだ。
文章も同じで、行間を作っているのではない。書かれた結果、文章と文章に囲まれた空間が出来上がっているのである。
書く側にとってそれは盲点になりうる。書くことは文章を線形に並べているのではない。出来上がったものは立体的にもなりうる。書いたものしか見ていないと、自分でさえも自分の書いた行間を捉えられなくなってしまう。行間が捉えられないと、文章がつながっていかない。言葉が上滑りしている感じがする。
線形なものから、立体的なものが生み出される。3Dプリンターで家を作る感じだろうか。自分が中心に立って、溶かした言葉を一層ずつ一層づつ積み上げていく。
行間という概念は、読者を決まり切ったレールから自由にする。
書き手は、自分の書いた文章が様々な読まれ方をすることを想定して書くことができるようになる。一つの幅のある空間が作られているのだから、読者は公園を散歩するように、同じ空間にいてもそれぞれ違った振る舞いをする。だから、書き手は全体の調和を図ったり、メインの遊歩道を目立たせたり、隅に咲いている花に気を配ったり、自分の文章をあらかじめ多角的に見ることが求められる。それが、空間をデザインする第一歩である。
読者は、行間という自由な空間をいつもとは違った歩き方をしてみたりすることができる。文章の読み方とは、案外、自由なものである。自転車で行ってる人は歩いてみてもいい。鳥になって、空から眺めてみるのもいい。そうした自由な読み方を許す文章は様々な読者を受け入れる普遍的な価値を持つ。
文章とは、空間である。