棒が落ちている世界を歩く
「犬も歩けば棒に当たる」この基本的なことわざが、好きで座右の銘にしたいと思っている。
このことわざに初めて出会ったのは、小さい頃、いろはカルタを遊んでいた時だった。そのカルタの柄には、目に見えない力で空中に浮いた木の棒が、歩いている犬のおでこを叩いてる絵が描かれていた。それを見る限りでは、かわいそうだなと思った、だけだった。「出る杭は打たれる」のように、余計なことをすると痛い目に遭うという理解しかしていなかった。この時には、それ以上深く考えることはなかった。
後々になって、このことわざには肯定的な意味もあるということを知った。役に立たないような犬でも、歩いていれば何かを見つける、という意味だ。
「棒でも拾ってくるんじゃないか」という言い方もその意味で使っている。期待しないけど、まあ、棒でも拾ってくるのではないか。その期待とも言えない期待にこのことわざの妙味がある。
子供の時に理解できなかったことが、大人になるにつれて「棒」に出会っていくうちにだんだんわかってくるようになった。例えば、なんの目的もなく散歩に行って思いがけない景色に出会ったり、いきなり知らないコミュニティーに参加して面白い人に出会ったりする。そうした自分でも期待していなかったのに、何かに出会う体験を積み重ねていくと、「犬も歩けば」の意味が深く味わえるようになった。子供にとっては、なんの目的もなく何かをするということが少し難しいのかもしれない。
犬も歩けば、棒に当たる。
これは論理的な推論ではない。犬が歩いたら棒に当たった。という因果を説明している言葉ではない。犬でも歩いていれば棒でも見つけるだろう、という経験則に近い。にもかかわらず、それはほとんどの場合に当たる。私たちは何かをすれば、何かを得るし、何も期待していなかったとしても何かを手にするはずである。どうしてか分からないが、このことわざは真理を言い当てているように思える。
いろはカルタに描かれている棒は、目に見えない力で空中に浮いて、まるで誰かが操っているかのように、犬のおでこを目がけてぶつかっていた。もちろん、これはイラスト特有のデフォルメした表現だが、的確に事実を表現しているように思う。私たちが棒に当たることができるのは、そうなるべき原因があるわけでもなく、「目に見えない」不思議な何かが働いているからではないか。そうでないと、説明がつかない。どうして、目的もないのに、そうしたいとも思っていないのに、その棒は私たちの目の前に現れたのか。歩いている犬は知る由もない。
犬は棒を見つけて、なぜ?と問わないかもしれないが、考えれば不思議である。考えてしまえることが、不思議である。
犬が歩いても、棒に当たることのない世界があってもいいと思う。たぶんその世界は、スカスカで物があまり落ちていないのだ。何気なく出かけると、本当に何気ないまま帰ってきてしまうような世界。そこには、なんの思いがけなさも偶然もない。それに一喜一憂することもない。
反対に、犬が歩けば棒に当たる、そのことがことわざとして今まで伝えられているのはなぜだろう。それは私たちの世界が、私たちの知らないもの、予想のつかないものであふれているからだ。思っていたこととは違うことが起き、予想が当たらない。幸運なこともあれば、痛い目に遭うこともある。それでも歩いていれば何かが起こる。そんな、雑多で賑やかな世界に私たちは生きている。
犬も歩けば棒に当たる、というのは世界観なのである。だから、幼い私は理解できなかった。世界観とは、生きていくうちにだんだんとわかってくるものである。たくさん歩いて、棒にぶつかっていくうちに、このことわざが指し示す真理が身にしみてきた。
今は、身にしみるどころか、このことわざを発見した人物に対して敬意まで感じている。この一言が言っている目に見えない力を見る目こそ、慧眼というべきだろう。その人は、世界をよく見たに違いない。その視線は論理的なものを超えた事実を見抜いている。
私はこのことわざを座右の銘に、日々「棒」を拾う生活をしている。行き詰まったら、棒を拾いにいく。当然、どこに落ちているのか、どんな棒なのか知ることはできない。しかし、わかっていることは必ず棒はどこかに落ちているということだ。
棒を探しているのが、犬であることも重要だと思われる。犬は常に匂いを嗅いで、目を動かして、歩いたはずだ。その探究の姿勢がなければ棒を発見することはなかった。棒が目の前にあったとしても、それに気づくことすらできないだろう。犬は、また素直でもあった。ポツンとそこに置かれていた棒が、自分のために与えられたものであると思うことができた。そして、それを自分のものとして持って帰ってきた。
この言葉はある種の警句でもある。犬であるためには、自分が持っている前提や目的を一旦忘れて、目の前に落ちている棒に気が付かないといけない。目的を追いかける気持ちを持ちつつ、思いがけないものに対する感受性を持っていなければならない。
なんの役に立つか分からないが、いつかは「棒」専門になるのも悪くないなと思っている。何も分からないまま、ふらりと歩き出してどうでもいいものを持って帰ってくる。偶然の出会いを、楽しみたい。そんな毎日の方が、気楽で退屈しなさそうである。
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!