「なんやねん!」
三猿ベイベー:Day 24
泣き終わって、舞は裏路地から出た。どうやら人はずっと泣いていられるようにはできていないらしい。あることをするためには、別のことをやめなければいけない。歩くためには、歩くための気持ちがある。舞にとって、それは当たり前のことだった。
気がつけば、大きな駅の前に立っていた。改札口に吸い込まれていく人。名前も知らない何人もの人。舞は呼び止めるわけでもなく声を発した。
「新宿駅西口をご利用の皆さん。津込舞と申します。」
改札口に吸い込まれていく人。1人、舞の大きな声に気がついて一瞬こちらをみた。しかし、その一瞬の後には通り過ぎていってしまった。誰からも興味を持たれていないことに気がつくと、舞はさらに自分の世界に没入する。
「ええ、見ての通り売れない芸人でございます。ここで1人、漫才を披露させていただきます。」
空は曇っていた。どんよりとして、夜の空に蓋をしていた。日が落ちると、街は怪しく光だす。ビルの窓が黄色く光る。看板の写真の女優が怪しく笑う。若者の底抜けた笑い声が遠くから聞こえてくる。とぼとぼと酒とタバコを片手に歩く老人。立ち止まる者はいなかった。いつも通り。
「タイトルは、『芋羊羹』でございます。では……」
『芋羊羹』とは、たまたま筆者が思いついただけのものだ。舞は普段からネタを考えているようだが、タイトルはどうでも良かった。ただ話すことができれば、それでよかった。その話に夢中になっていれば、いつか、込み上げてくるような笑いが腹の底からやってくる。
「で、そのおっちゃんなぁ。変なやっちゃなぁ……クククッ。しもた、また笑ってしもうた。ハハハハッ。漫才師が、自分の芸で笑うって何やのもう。アハハハハハッ!」
舞は、笑い出す。しまいには話し続けることができないほど、笑い出す。話していると何故か、可笑しくなってくるのだ。そのおかしさに舞は堪えられない。
「ククククッ……アハハハハハハハハハッ! あーーーオカシッ! あははははははは!」
街頭漫才をしに来たのに、いつの間にかそれを忘れて、笑いに体が囚われてしまう。笑うしかなくなる。その時の自分が何よりも心地よかった。笑い声が響いて、体が揺れる。熱くなる。頭が明るく、パッと照らされたようになる。
この感覚は、街に出て人前でいないと味わえないものだ。と舞は思っている。部屋で1人で笑っていればいいのではないか。そう思っていた。でも、マンションの部屋で1人笑っていると、周りから「うるさい」と言われてしまった。それきり、思い切り笑える場所を探していた。色々探していた結果、駅前しか場所がなかった。たくさんの人に通り過ぎられるこの場所が、舞にとっては一番、孤独でいられる場所だった。
いつの間にか、笑いが抑えきれなくなって、地面に寝そべって気を失う。その舞を見て、また人は通り過ぎる。コンクリートに横たわる黄色いジャージ。乱れた茶髪。踏まれたことがある。物を投げつけられたことがある。水をかけられたことがある。そうして意識が目覚めると、何故か不思議に笑いが込み上げてくる。また、舞は笑う。
どうしてだろう。とてもおかしくてたまらないのだ。この人混みで、たった1人漫才をしながら立っている自分が。何人もの人に一瞬見られ、次の一瞬には忘れられる。そんな自分がおかしくてたまらないのだ。その自分を見る目が、おかしくてたまらないのだ。
「アハハハハッハハハハァッ!」
失われた意識の中で、舞は夢を見る。それはもちろん、脳内で再生される一連の出来事のことで、「日本一のお笑い芸人になる」と言ったような現実世界で見る夢のことではない。
その中ではいつも、雨が降っていた。ぽつりと1人、人がマイクの前に立っている。舞の心の中。マイクの前には彼女の憧れの芸人「グレート松村」が立っていた。
舞は傘をさして彼が語るのを聞く。
「あのなぁ。うちの母ちゃんな。いつもおでんを食べてんねんけど、ちくわをな……ストローみたいにすうねん……」
笑う者は誰もいない。彼がどんなことを言っていたのか、舞もよく覚えていない。しかし、そんな景色があったような気がする。そして、彼は最後にそう言った気がする。
「笑いにはなあ……世界を変える力があんねん。」
「ククククククッ! うへへへヘヘッ! はあはあハアハア……グハハハハハハハハハハハハッ! ぎゃーーーーーはっはっはっはっ! いっヒヒヒヒヒヒヒッ!」
舞は曇った空に向かって、笑い声を投げかける。わからなくて、わからないとも思わず、ただ笑う。そして、息がつづかなくなると泡を吹いていつの間にか膝に衝撃が走り、地面に手をついている。体力がなくなるまで笑い続け、立てなくなるまで、声を出す。
「笑いにはなぁ……世界を変える力があんねん。」
「ねえよ。」
石田はいう。
「はあ? あんたに何がわかんねん!」
「笑ったところで、面白いだけだろうが。つーか今の世の中誰も笑ってねえよ。お前の漫才で笑ってるのはお前だけだ。」
初めて「三猿」の事務所に行った時、石田は舞に反対した。舞も石田に反対した。しまいには、舞は事務所で喚き散らして、そこらへんに散らばるガラクタの山に八つ当たりした。
「知らんねん! 何やねん! この事務所は! ガラクタばっかりやし! 何やそっちこそ『世界を変える』言うても何もできへんやんけ!」
プラスチックのスプーン。市松人形。スケートボード。絵画。猿のぬいぐるみ。CD。パソコン。サーフボード。謎の鉄柱。たぬきの置物。雑誌。時計。食べかす。カツラ。
駅前の雑踏よりかは、賑やかに感じられるそれらのガラクタを舞は蹴っ飛ばして、さらに散らかした。山はびくともしなかった。ゴミの廃棄場のように天井まで堆く積まれたガラクタの山だ。何故か事務所に放置されているガラクタたちに、舞は怒鳴りつけた。
「舞ちゃん」
どこからか声がする。
「無駄に怒っているな。やっぱり理屈なんてねえじゃねえか。」
石田の声がする。
「舞ちゃん。」
どこからか声がする。
「売れないなら売れないなりに、開き直ればいいじゃねえか。」
「舞ちゃん。」
「私は舞ちゃんが日本一のお笑い芸人になるのもいいと思うよ。」
「光乃さんまで……!」
「舞ちゃん!」
「は?」
呼びかけられて、舞は意識を戻す。コンクリートの硬さに体が強張る。眩い光が視界を覆う。低く唸るような音がする。その度にコンクリートが震える。舞は目を擦って、見ようとする。
「舞ちゃん。ここにいたの。」
「光乃さん?」
ライトが落ちて、また視界が明滅する。瞳孔が縮む。
「ここではじゃなくて、葵って言って。お願いね。」
バイクの上には着物姿の見慣れた女性が腰を下ろしていた。ガードレール越しに舞を見下ろしてこちらに手招きする。
「乗って。」
「は?」
「石田くんを迎えにいくよ。」
「は?」
舞は状況を理解できずに、ただ笑う。
その後から、Pパッドが飛行形態で葵のバイクの隣に滑り込んできた。ハルと僕だった。ハルはPパッドを立てると『おはよう』とその上に表示させた。
「何で、みんなおるん?」
「制作会議の続き、しないと。石田くんを探しにいくよ。」
「へえ?」
舞は疑問に思いながらも、仲間の顔を見て心が沸き立つ。ハルはぴっちりした黒いライダースーツを着てPパッドを横に地面に置き、飛行モードに移行させる。ボクはハルにしがみついておずおずとPパッドに乗り込む。
「さあ!」
葵の手を取って、舞もバイクの後ろに乗り込む。思ったよりもしっかりした座席で、乗り心地が良かった。
「ゴー!」
その一瞬後には、バイクは振動してまるで筋肉がある動物のように地面を蹴った。舞は、いつの間にか葵の方にしがみついていた。疲れがやっと置き場を見つけて体に染み渡ってくる。意識が遠のく。同時に、手は離さないと強く思う。お香の匂い。風が耳を撫でる感触。いくつもの光が目の奥を通り過ぎていく。
「何やねんこれ。」
舞はつぶやいた。
「私たちの物語よ。」
葵はそう答えた。