自由に表現するとは?
ふと、「ご自由にお書きください」と言われて、書いてみて、実際私は自由だったのかと疑問に思うことがある。とりあえず文章を書いてみた。そして、自分が納得できるところまでは書いた。それで、今日の分は完成するのだが、それは自由だったのか?
極端なところまで飛躍すると、「自由に書く」とは社会的に認められないことや、人を傷つけてしまう言葉までもを書くことを含んでいるのではないか。
しかし、「自由に書きたい」という欲望は、そうしたことを書きたいという欲望とは違う。
おそらく、自由はかきあげる前に私たちに与えられているものだ。何を書こうとしてもいい、ということと言い換えられると思う。そうではなければ、「書きながら考える」という行為は成立しない。結果として何が書かれてもいいから、とりあえず書き始めることができる。
もし、「自由とはこれこれのような結果になるように行動することである」というようなものであったら、自由に書き始めることはできない。
これから書かれることが、反社会的であるかもしれない、また暴力的であるかもしれない。しかし、とりあえずは書き始めなくてはわからない。
しかし、この文章が「記事」としてnoteに発表されている以上、そうしたことは書かれていない。(だから安心して欲しい)
文章は、どんな内容のものでも書き得るのに、発表され、社会的な存在になるとある程度のふるいをかけられる。これはどういうことだろう。
私たちの目につかないところでは、たくさんの自由な表現がされていて、私たちが見ている文章はその自由さの一部であるようだ。それは、悲しいことでもつまらないことでもなく、私たちが安心して文章を読むことを支えている。
社会に出てくる文章は、制約の中の自由をもとに書かれていると言える。言ってはいけないことは確かにあると思う。しかし、その制約の中で、どれだけのことをいえるのか、自由を追求することは可能だ。
また、一方で完全にプライベートな文章では、文字通り、何を書いてもいいと思う。誰にも見せないのであれば、何を考えていても、何を書いてもいいと思う。思いっきり広い意味で、表現の自由はそこにある。
文章を書くことと、文章を発表することは分けて考えられる。書くこと、書く内容は自由だが、文章を発表することには様々な制約を受ける。