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自分ではないものが自分を救う
もし、自分が間違っていたらどうしよう。今自分が、やっていることが正しいかどうか決断がつかない時、また判断する時間も十分でない時、どうすればいいのだろう。
そのような時のために、自分ではない価値基準を無理して飲み込んでみる。
アイデアが浮かばないで行き詰まっているときは、こだわる自分を無理に押し進めてパソコンに向かわせる。そういうときは、「とにかく書け」という自分の外からの声に素直に従ってみる。
毎日、同じことをしていそうでも、実は同じではない。線を一本引いてみよう。その下にもう一本線を引いてみよう。二本の線は同じではない。手が作り出す「ぶれ」は、自然なバリエーションを生み出す。同じことを書こうとしてもこうなのだ。とにかく書いてみれば、昨日とは違う自分が見える。どうしたって手癖が出る。むしろ自分を殺そうとすればするほど、手癖が見えてくる。ある意味それも、自分の中にある自分ではないもの、と言える。
時には、頑張りすぎること、忙しすぎることが自分を追い込んでいる。忙しすぎると、そのことに気がつかない。なぜなら、本当に忙しいときは反省する時間すらないから。忙しさは二重に自由を奪う。他のことをする自由と、忙しい自分を反省する自由。そうなってしまったら、無理にでも自分の意思に反して忙しさから抜け出さなくてはいけない。
そのような時こそ、自分ではないものが自分を救う。
自分がしたいことを自分のしたいようにする。意外とそれが簡単なようで、できない。世界を単純化して理論的に説明するのは物理とか数学では有効だが、特に「自分」というやつに対しては、ほとんど役に立たない。
自分はもっと複雑で、他者の影響を受けている。そうしたことを忘れて単純化した自己の元で思考を進めると、いずれ行き詰まる。頑張りすぎてしまう。
これが私です、と語ってしまった時点でその複雑さを逃してしまう。
書きたいことを書きたいように書く。意外とそれは理想のようで理想ではない。
もっと楽しいのは、書きたいと思っていたことが、書くことによって裏切られることだ。
書きたいことに囚われると、偶然に出会った文章のリズムと言葉の輝きを忘れてしまう。
自分というものは、もっといい加減であやふやで信用できないものだ。
だから私は彼を信用している。
未知なるものへと目を見開かせてくれる彼を。移り変わるがゆえに、定まらないがゆえに、理不尽であるがゆえに、信頼している。
その信頼は、自分自身を捨てていくたびに磨かれる。
何も持たずに、書き始めてそれでもなお新鮮な何かに出会うたび、私はなおさら書くことをやめられないと思う。自分ではない何か。それをわかっているのではなく、わからないまま進んでいく。理解というより、受容して。進んでいく。
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