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言葉にできること、できないこと
言葉にして表すことには独特の味がある。
好きな芸術作品の解説が、思っていた解釈と違うことがある。すっきりすることもあるが、そのままわからないままでいたかった、と思う時もある。
人の気持ちも似たようなものだ。はっきり思っていることを言われると、興醒めてしまう。言ってから、何だか思っているようには伝わっていないと感じる時もある。言わないままの方が良かったと後悔する。
逆に、一人で抱えていた言葉にできないもやもやを、誰かの言葉が救ってくれる時もある。その時、抱えていた苦しさや重みも何だか半分になったような気がする。言葉にすることはすなわち、誰かとそれを共有することができる形にすることだ。
どうしたって言葉にできないものがある。個人的な出来事。例えば「人生」という言葉がある。しかし、その「人生」だけでは人の個人的な生きた事実をどうしてもうまく表すことができない。そこには、言葉にできないたくさんの感慨がまとわりついている。
言葉に手垢がつくとはこのことだ。個人的に生きられた人生を正確に表すためには、「人生」という言葉では十分ではない。「これが人生」の「これ」が指し示す何かを、具体的に表す言葉はいまだに見つからない。
それは最初から無理なことなのかもしれない。言葉にすることがすなわち他人と共有することであるならば、人生がどこまでも個人的なものである限り、言語化は不可能だ。誰も、他人の人生を肩代わりすることができない。言葉によってもそれはできない。
言葉にされてしまう人生など本当ではない。人生の方から考えると、言葉は無力なものだ。逆に、言葉にできないからこそ人生は面白いと言えるだろう。
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