誰かのために書くこと
「論より証拠」と言う。論理はあくまで何かについて語ることに過ぎず、事実そのものよりも価値が低いとされている。大事な問題は、人に言われてもわからない。自分で納得しないといけない。
それでも人は論じることをやめない存在でもある。毎日何かを書いたり、話したりしている。かく言う私も毎日書いている。だから、論じることの意味について考える時もある。人に言われてもわからないのなら、私が他人として誰かに向けて何かを言うことにあまり意味がないのではないか。
書くことは、考えを整理したりする上で自分のためにもなる。人を説得できなかったとしても、そこで満足してしまうことができる。
自分のために書いているとき、自分自身を説得しようとしているのだ。
こうして、一文一文書いているとだんだんと書きたいことが体の中に落ちていく感覚がある。表に現すと言うよりも、書けば書くほど深いところに落ち着いていく感覚がある。
人を説得する最も原始的な方法は「そこにいる」ことだ。その段階は言葉も必要ない。そばにいて、自分という存在を納得させる。どうしようもなく、自分であることを伝える。単純だが、よく使われる。
書くことが自分を説得することであるならば、まず、自分と一緒にいなくてはならない。自分の外に向かう考えを一旦止めて、自分がどうしたら納得できるのかを考え始めなくてはいけない。それは、単純に物理的な時間を要する。技術よりも根気がいる。ひたすらに机に向かうこと。それが第一歩になる。
自分を説得できなければ、おそらく他人も説得できない。
もし書かれたならば、どんな文章でも説得力はあるのだろう。正確さや速さを考えなくても地道に文章を積み重ねれば、「いっしょにいる」ような効果を生み出すだろう。それは言葉による理解ではないかもしれないが、一つの到達点である。ただ書き、ただ読むと言う段階では文章に上手いも下手もないだろう。もちろん書く手も読み手も、お互いに付き合い続けることができればの話である。だから、付き合うための技術は有効かも知れない。
自分のために書けばいい、というのは半分正しい。書くことで確かに自分を説得することはできるからだ。
しかし、そのような方法では自分のやり方でしか、文章を理解できていない。それは、自分のための文章であり、読む人のための文章ではない。自分が納得したやり方では、相手は納得しないかも知れない。
このことは書き手にとっては、落とし穴になりやすい。そもそも「誰かのために書く」ことの意義すら見出せないこともある。なぜかと言うと、書き手はすでに自分で納得してしまっているからだ。まだ、それについて知らない読み手の気持ちがよく分からない。
書くことによって説得されてしまった書き手は、読み手のレベルにわざわざ降りて行かなくてはならない。書き手は、一旦手に入れた主観的な理解を手放して、自分以外の誰かによっても理解できるのかどうかを検証する必要がある。
その時、書き手は「わかる」ことの基準を主観ではない何かに委ねることになる。主観ではないからと言って、そのまま客観ということはできない。読み手がわかりやすいように書くとことは、必ずしも客観的であるとは限らないからだ。五歳の子供に言い聞かせるのと、大人に言い聞かせることは違うだろう。人によって、わかることの基準は違う。どうすれば、その人が理解できるのか、それを見極めないといけない。
論理や物語は、長いこと書き手が主観以外の「わかる」基準を探すときに真っ先に頼りにすることだった。論理は誰にとっても正しいだろうし、物語に乗せて語れば事物のつながりが見えやすくなる。しかし、それは絶対的な方法ではない。また、それ以外の方法で理解することを否定することもできない。
先ほどにも述べたように、「いっしょにいる」ことで納得させることもできる。それはすなわち、書き手の主観に読み手が包摂されることである。「この人の言っていることだから」と読み手が斟酌して理解しようとするとき、それは世間一般のわかり方を捨てて、その人の身になってわかろうとしているのである。
書き手は誰に、どのように分かってもらいたいのかを選ぶことができる。
例えば、論理的に書くのは何のためだろうか。論理は誰にとっても正しいが、「論理という仕組みを理解した人」ならば、という暗黙の前提条件がある。実際、論理は誰にでもわかるものではない。論理で納得できない人を排除するものでもある。そして、複雑な論理を使いこなせる人はそう多くはないだろう。本当に論理にしか従わないとしたら、常識とはかけ離れた書き方になるだろう。
書き手が論理に合わせると、読み手も論理に合わせる必要がある。論理は一種の媒介装置である。書き手は、主観で分かったことを、論理に変換する。そして読み手は論理で読んだことを、また自分の主観で理解し直す。論理で説得することは、相手に納得させることと別に考えなくてはいけない。
論理はそうした論理自身の限界に気がついたときに初めて、理解にたどり着ける。理解のプロセスが全て論理で行われているわけではない。実はわかりさえすれば、論理を媒介する必要すらない。本当に伝えたいことを見つけたならば、いつかは論理を手放さなければいけない時が来る。
誰かのために書く、とは文字通り誰かが理解できるように書くということである。正しさのためでも、速さのためでもない。普遍的なものに一度立ち寄ってしまうことが、誰かを説得することから遠ざかることにもなりうる。伝えたいその人が何をどのように理解しているのか、それを真っ直ぐに見つめることが誰かのために書くことだ。「誰か」はその時点で、具体的な名前を持った存在になる。だから、「誰か」という曖昧な対象のままでは「誰かのために書く」ということは、達成されにくい。
自分のために書くことの先に、誰かのために書くことがある。そして、「誰か」のために書くことも、いずれ超えられなくてはならない。