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Day 17: きもち→こころでおどる
小説を書くにも、随筆を書くのにも気持ちがある。その気持ちを基準に書いている。音楽が軽くなっている感じ。気持ちを基準にしていて、内容は基準にしていない。これを書かなければいけないということは決めていない。
しかし、確かに「気持ち」はある。
私が書いている時の気持ち。言葉を紡ぐ瞬間の感覚は確かにある。だから、書く時に考えているのは言葉の世界のことだ。言葉を考える。言葉と言葉のつながりを考える。その時の考えている感触が「書く」ということをわたしに自覚させる。だから、無意味な文字列を書くことはできない。「ああofふぇhもウェfぃw五位w」とか書いても、書いている気持ちにはならない。どれだけくだらなくてもなぜか、意味する文字列を書くことがいい。
物語に引っ張られるか、書くことに引っ張られるか。この小説がどちらに転ぶかはわからない。小説の展開よりも、メタ的な視点と、物語的な視点が混ざり合うことの方が面白い。どちらが勝つのか、今日はどんなバランスで両者が共在するのか。
昨日は別の文章を書いた。その時に、文体が分裂していることに気がついた。つまり、三猿ベイベーではかけないものを書いた感覚があった。だからこそ、別の形式で、別の記事をnoteに投稿しなければいけなかったのだ。
かといって、そうやって書いた記事が今まで書いてきたものの影響を受けていないわけではない。三猿を書いているうちに場面を切り合わせるモンタージュ的な手法を使っていた。そうした飛躍をエッセイや散文にも使える気がして、軽く、指が進むままに文章を書いた。
そちらはそちらで、別のテーマを書いてしまったからまた追及することが違う。とりあえず、今は「三猿」を書こうと思う。
本当は全て一つのはずなのだ。私の書くという「気持ち」によって生み出される。私が書いているこの気持ちの上に生まれたものは、小説だろうがエッセイだろうが関係ない。
「そうだろうな。」
石田がいう。事務所の中。景色が脳内に展開する。いつもの事務所の中。小説的な景色の展開は文体に追いつかない。
小説を書くとき、文体が世界を追っていくことを「描写」という。小説世界は文体に先立ってあるということか? 画家が絵を描くとき、対象は絵よりも先にこの世界に存在する。だから、画家は絵を描く。普通、世界を描くとは言わない。しかし、「描写」しようとすると、どうしても私は退屈だ。すでにあるものを書くのは退屈だ。書くと同時に世界が生まれる。その方がよっぽど楽しくてワクワクすることだ。
「目を閉じろよ。」
石田の目。黒いサングラスの奥にある目。息をする。その目は何を見ている?
「何も。何も見なくても、わかる。この世界に見るべきものなどそんなにあるか?」
見ざる。
だから、私は精神の世界を記述する。「精神の世界?」そんなものあるのか? さっきから記述されるこの言葉は何処を書いているのか? おそらく、気持ちの問題。私が書いているもの。私が書くと同時に生まれるもの。書かれた瞬間には、「何を書いた」かわかっていないもの。書かれた後にわかるもの。それは、この世界にないかもしれない。丸い四角。四角い、三角。見えるものでも、描けるものでもない。だから、強いていうならば「精神の世界」というのがよい。
そこには、感覚ではないリアリティーがある。
私は強烈に見るから、それは強烈に真実だと思うのだろうか。
私たちは強烈な感覚を感じるから、それは強烈に真実だと思うのだろうか。
だとしたら、夢はどうか。私たちは外からの感覚で夢を見ているわけではない。
全ては脳の中の出来事である。にもかかわらず、私たちは夢をリアルに感じている。少なくとも、夢を見ている間は。
そこには、感覚によらないリアリティーがある。
「目を閉じろよ。」
石田は言う。彼は特殊な目をしている。彼は目でものを見ていない。おそらくそう思う。真っ黒いサングラスで世界を見る。
私たちは強く見るから、強く真実だと思うだろうか。
否である。
目を閉じればわかる。私たちが「気持ち」を持ち続けていればそれは目を閉じる前の世界と同じだとわかる。私はそこにいると感じる。感覚の強弱が真実の度合いの強弱ではない。
「簡単な議論を、難しく言うなよ。」
石田は言う。
そうだな。確かに、簡単なことだ。でも簡単なことをいきなり書いたら、戸惑いが生まれる。
「いいんだよそれで。」
じゃあ……。書く。と言うか、勿体ぶってても仕方ないな。真実とは、私たちが真実だと思うから真実。リアルとは私たちがリアルだと思うからリアル。リアリティーとは、これがリアルだと思ったものが持つ感覚。
「……ん。そんなんでいいのか? お前はお前自身を信じられるのか? この小説が本当だと思えるのか。 自分が信じる『リアル』がリアルだと信じられないから書いているんじゃないのか? この小説を。」
そうだ、それはそうだ。私は信じられない。
私がリアルだと思うから、それはリアルだ。
とても単純な法則。箴言。でも、それを書き渋ったのはなぜか。それに戸惑うのは何故か?
その中心にある「思う」がわからない。私が思っていることさえ、私は信じられない。だから、私は「思う」代わりに、「書く」。私は、思う代わりに肉体的な動きによって、リアルを手に入れる。
そう、踊る。
「踊れよ。」
石田の耳には小さなイヤホンが刺さっている。音楽が流れる。
石田は踊る。手を挙げ、足を動かし、体を揺らす。
どこで?
どこでかなんて書いていない。
強いて言えば、書かれる前の世界で、石田は踊っている。
だから、書いている私には、彼が何処で踊っているのかはよくわからない。
そんなのはおかしい?
いや、しかし今までの話を考えるならば、彼は何処でもない何処かでただ踊ることができる。感覚の強弱? 確かな感覚? そんなものはなくても踊れると私は思う。だから、私は、『石田は踊る』と書く。
石田は踊る。
ただそこに、石田は踊る。と書く。
リアルな描写が必要か? 彼が踊るために。しかし、本当にリアルな小説とはどんなものなのか? 隅々まで世界を「描写」することか? 心の動きを生々しく描写することか? とすればその「生々しい」とは何か? おそらく、心の隅々まで描写することが生々しいのではない。そこに書かれた言葉が何らかのリアルを私たちに呼び起こす。それが生々しいのだ。決して緻密なわけでも、正確なわけでもない。それらは必要な条件ではない。
石田は踊る。
それはこれを読むあなたにとって、どのぐらいリアルか? それともただの文字列か? 書いている私にとって、どのぐらいリアルか? 小説の技術の問題では恐らくない。しかし、私が小説を書くならば、私が書くことで目指すならば、「石田が踊る。」と言う言葉を何処までも真実のように書くこと。彼が何処までも本当に踊る場所を作るしかない。
石田は踊る。
目を閉じて踊る。
「見つけた。」
彼は言う。
石田は踊る。
何を見つけたのだろうか。彼は踏む。何を踏んだのだろうか。そもそも踊るためには地面が必要か? 宇宙空間で踊ることはできない? 宇宙に行ったことがないからわからない? じゃあ想像しよう。 「心が躍る」と言うじゃないか。きっと心で踊ることはできるのだ。宇宙に行く。星々が輝いている。惑星が漂っている。太陽の光を浴びて輝いている。それを見たらきっと、私は心が躍る。それでいいのだ。
石田は踊る。
と私は書く。目を閉じたまま。彼は踊る。目を閉じたまま。彼は踊る。
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