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無為に過ごした時間を取り戻す方法について
「無為な時間を過ごしてしまった」と後悔するのは、誰にでもよくあることだと思います。
私達は、ついついTwitterを眺めて、動画を見て、あるいは寝てしまって、あまり有意義とは言えない時間の使い方をしてしまいます。
現代日本は、そういうことが起こりやすい環境が整いすぎているのかもしれません。
大昔に比べれば人間の暮らしは遥かに良くなりましたし、スマホは人間の注意を集める仕組みで溢れかえっています。
このあたりのことは、スマホ脳とか時間術大全とかに詳しいことが書かれていますね。
一度流れた時間はもとに戻せません。
SNSやYouTubeを見て眺めて半日を過ごしてしまったなら、その事実はもうどうやっても変えることができないのです。
「過去」の一番良いところは誰にも変えられないことです。
一番イヤなところも、変えられないことだと思いますが。
しかしここでは、「無為に過ごした時間」をどうにか取り返せないか、ということを考えてみたいと思います。
無為な時間とは何か
そもそも有意義な時間、無為な時間とはどう決まるのでしょうか。
ここでは、自分が自分の時間の過ごし方について考えている場合を想定してみましょう。
この場合、「ある期間の時間の過ごし方」という部分的な自分の歴史に対して、どのような意味があったかという判断を下しているわけです。
では、どのような場合に「無為な時間だった」という判断を下すのでしょうか。
個人的には、その時間の過ごし方に価値のある意味を見出だせない時だと思います。
「これだけの時間をかけて、このような結果を得た」という事実に対して、「時間に見合う結果を得たか」ということを考えるのです。
コスパの良い買い物をしたか、ということですね。
例えばTwitterを見て二十分ほど過ごしたとします。
この場合、二十分の時間をかけるに値するほどの何かを得たかによって、その時間の価値を決めることになるわけです。
例えばただ漫然と眺めただけで特に面白いこともなかった、というのであれば無駄な時間を過ごしたと思うかもしれません。
逆にとても興味の湧くイベントの情報などを手に入れたら、その時間に見合う価値のある情報を得たので、無為な時間だったとは思わないでしょう。
ここで一つ覚えておきたいのは、「判断を下す時点の状況によって」価値が変わりうるということです。
仕入れた情報の価値に後で気づいたら、その時間の価値も上る可能性があるということですね。
まあそういった「可能性」に執着して、無駄だったことを頑なに認めようとしない、というのも不健全な気がしますが。
無為を有為に変える方法
ではこの条件で「無為な時間」を「無為ではない時間」に変える方法について考えてみましょう。
「時間」は「時間の過ごし方に価値が無かった」と思うことで「無為だ」という判断が下されます。
つまり逆に言えば「この時間の過ごし方には価値があった」と思えれば、過去の行動が変えられなくても、後悔している現状を変えることはできるのではないでしょうか。
では、どうすれば過去の時間の過ごし方に価値を付与することができるでしょう。
ここでは一つの方法として、「この時間の過ごし方によって何かを得た」と思うことができる『状況』を作り出すことを考えてみましょう。
例えば寝落ちして一時間寝てしまったとします。
この時「寝るつもりがない時間に寝てしまった」という事実に対して「一時間も無駄にしてしまった…」と思うことはよくあるでしょう。
この評価を変えることを考えてみます。
もしここで何らかの行動、例えば運動をしたり勉強をしたり、自分が有意義だと思えるような何らかの行動を取ることができればどうでしょう。
「仮眠によって気分的に充実した状態になることで、有意義な行動に移ることができた」と考えることができるかもしれません。
つまり、後付けで一時間の睡眠に意味を与えるわけです。
こんなに毎回都合よく有意義な行動を思いつくとは限りませんし、寝たせいで逆に疲れてしまっていたら、それこそ何も行動できないかもしれません。
しかし、「今行動すれば、時間を取り戻せるかもしれない」という気持ちは、自分の身体を割と強く後押ししてくれるのではないでしょうか。
取り戻せるだけ、取り戻そう
ここで重要なのは、「できることだけやる」ことで「取り返せるだけ取り返す」ことです。
例えば一時間まるごとの時間に対する評価を改善するには、それなりの結果を必要とすると思います。
一時間という時間に見合うと思えるような「行動」は結構大変かもしれない、ということです。
過去の記事にも書いてきましたが、凡人は自分を過大評価しがちです。
「一時間という対価を払うなら自分はこのくらいの結果を得られるはずだ」ということを考える時、大抵多すぎる結果を見積もってしまいます。
なので、失った時間の長さをもとに考えられた「それに見合う行動」は、割と大変なものになりやすいと思います。
しかし、それによって「そんな大変なことはやりたくない」となってしまっては、時間を一切取り返すことが出来なくなります。
逆に、多少しょぼくても何らかの行動が取れれば、数分くらいの時間を取り返せたと思うことはできるかもしれません。
あまり欲張って、取り戻せたはずの時間もかえって取りこぼしてしまう、なんてことの無いように気をつけたいものです。
時間を取り戻そうと思った時は、「自分のできること」を基準に「取り返せる時間はこのくらいだな」と考えたほうが筋が良いかもしれませんね。
まとめ
今回は「過去の行動は変えられないから、過去の意味を変えよう」ということについて述べてきました。
実際には毎回こんなことがうまくいくとは限りませんし、いつもこんなことを考えていては疲れてしまいます。
時には無駄な時間を過ごすことがあっても良いと思います。
しかし、「いつも無駄な時間を過ごしてしまって、後悔するばかりで何も行動できない…」という時には多少役に立つ考え方ではないかと思います。
うまくいけば過去の時間も多少取り戻せて、なかなか手を出せなかったことに取り組めるかもしれません。
一石二鳥です。
過去の事実は変えられません。
そのことで自分をむやみに責めるのではなく、その過去により良い意味を与えてみることを考えてはどうでしょうか。
では、またいずれ。