汁気の多い耳かき小説

じめじめとした、梅雨の季節がやってきた。連日の雨による湿気と、夏に向かって高まる気温とが絡み合い、人間にじとりとした汗を掻かせる。

俺は、教室隅の窓際の席から、分厚い雨雲から降り落ちる雨を、頬杖をついて、ぼーっと眺めていた。

ぺたりと、汗と室内の湿気で湿った掌が、頬に吸い付く。その感覚で俺はもう不快感が限界に達しそうになる。おんぼろの公立高校の校舎には、クーラーなどといった上等なものはない。

耳の横のこめかみを、つつーっと伝い落ちる汗。もう俺は我慢の限界になって、放課後を報せるチャイムがなった瞬間、水道に駆け寄り、水を頭から被った。

「ちょっと、あんた、なにしてんの」

と俺と同じ、文芸部の女子、マドカが、気だるげな声で俺に問いかけた。

別に、汗が気持ち悪いから、水で洗い流しているだけだ、と俺は応えた。

「そう、それなら、耳の方も大変なんじゃないの?」

マドカは、アンニュイとも言える気だるげな表情の上に、笑みを浮かべている。

そう、マドカは耳掻き愛好家なのであった。きっかけは、母親が、幼い息子に耳掻きをするという内容の絵本を読んだことだったそうだ。マドカはその絵本を読んだころから十年余り、よりよい耳掻き棒を探したり、耳垢の収集に没頭するようになったらしい。俺からしたら、ちょっと理解できない趣味だが、俺とマドカの奇妙な縁は、ある耳掻き棒から始まったのだ。

文芸部に入部した俺は、部室に置かれている書棚に収まった大量の本を、夢中で読み漁っていた。部室にある蔵書は、ちょっとした図書館ほどの量あり、それに比例して文芸部の部室は文化系のなかでも最も広かった。

部員が皆帰ったあとも、夢中で本を読み漁っていると、書棚の影に、一本の細い棒のようなものが落ちているのを見つけた。俺は、書棚の床に落ちていたその細い棒を取り上げ、しげしげと眺めた後、元に戻しておくのも悪いと思って、読書スペースとして使っていた机の上に置いた。

いつも校門がしまるギリギリに部室を後にする俺は、その日も同じように、太陽が沈んでからも本を読み続けていた。ちょうど、2ヶ月ほど前のことだ。

がたん、と扉が開かれる音に驚き、扉の方を見やると、そこには荒く息を吐くマドカがいた。当時、顔と名前が一致する程度の付き合いしかなかったマドカが俺に声をかけてきた。

「君、ここにこれくらいの細い棒が落ちていたと思うんだけど、知らない?」

とマドカは手で棒の長さを示した。

ああ、多分、これのことじゃないか?と俺は先ほど拾い、机の上に置いておいた細い棒を指で示した。

「ああ、良かった、無くしたか、さもなければ壊れてたかもと思ってたけど・・・」

マドカは、慎重な手つきでその棒を拾い上げ、鞄の中から取り出した筆箱のようなものに、その細長い棒を差し入れた。

「君、ありがとう、君が見つけてくれたんだよね?大事なものだったから、無くしてたらどうしようかと思った」

別に、落ちていたのを拾っただけだ、と俺は言った。

「でも、なにかお礼をしなくちゃ、そちらばかり恩を売っていることになって、不公平でしょ?」

だから、なにかお礼をさせて、とマドカは言った。

じゃあ、君がやれる、僕がやったことに釣り合う恩返しをすれば、それで済むんじゃないか?と俺は提案した。

「そうだね、じゃあ、耳掻きをしてあげる」

とマドカは先ほど取り出した筆箱のようなものから、俺が拾った細い棒とは別の、明るい色の木でできた細い棒ーーー今思えば、それは間違うことなく耳掻き棒だったーーーを取り出した。

マドカとの印象的な出会いを思い出していると、文芸部室に着いた。部室棟の奥まったところにあるこの部室は、校内の喧騒からは隔絶された、正に、この高校の秘境のような場所だった。

俺は、一緒にここまで歩いてきたマドカと共に、部室に入る。そこには、誰もいなかった。この部活動は、部室はやたら広いのに、地味な活動内容だからか、こうして部室を利用しようともしない幽霊部員が大半だった。俺たちは、その中でも貴重な、幽霊部員ではない部員だった。

俺たちは、空いている席に荷物を置いた。すると、マドカは鞄から白いタオルと筆箱のような形をした耳掻き道具入れを取り出した。

タオルを膝に敷くと、マドカはそこをぽんぽんと叩き、俺の頭をそこに置くようにいった。膝枕だ。最初、俺はマドカに膝枕はしなくても良いと言ったが、マドカは頑として譲らなかった。どうやら、膝枕は、マドカの中で譲れないポリシーのようなものらしい。

俺はもう何度も繰り返されたこのマドカの仕草を見て、半ば反射的に頭をマドカの膝の上に置いた。

俺が寝転がれるほどの長さに並べられた椅子の上に体を横たえ、頭をマドカのやわらかな膝の上に置いていると、一日中酷使した頭がじんわりとマドカの膝に溶けていってしまうような錯覚を起こした。

「じゃあ、始めるよー」

マドカは、厳選したらしい耳掻き棒の中から、さらに俺の耳穴にあった金属製の耳掻き棒を抜き取り、ひんやりと冷たい耳掻き棒を俺の外耳に這わせた。

スッ、スッ、スーと金属製の棒が、滑るように俺の外耳を移動する。マドカは、集中しているのか、鼻で深く呼吸する、その呼吸音しか発していない。

マドカは、机に置かれたティッシュペーパーに、時折その金属の耳掻き棒を擦り付ける。マドカの膝の高さからはそのティッシュペーパーは見えないが、きっと、俺の耳垢で茶色く汚れてしまっているんだろうな、と俺は思った。

タオルとスカート越しにマドカの体温を感じる。常に日陰にあるこの部室は、梅雨にあってもひんやりと涼しい。その涼しさと、マドカの耳掻きによって、俺は日常から離れた、深い山間の村の木陰で、足を休ませているような錯覚を覚えた。

外耳の耳掃除を終え、マドカは道具を耳掻き棒から、綿棒に持ち換えると、その綿棒を俺の耳穴に差し入れた。

ボコッ、ボコボコ、ジュワ、と、綿棒に、耳穴の水が吸収されていく。先ほど、水を頭から被ったことで、耳穴に大量の水が入ってしまったらしい。横目でマドカの顔を覗くと、いつもの気だるげな表情とは打って変わって、生き生きとした表情をしていた。

「さっき、水を被っているのを見たときはどうかと思ったけど、耳垢が水でふやけて良い感じになってるねー」

マドカは、こちらの眠気を誘うような声で状況を報告しつつ、茶色く汚れた綿棒を取り替える。綿棒でくりくりと耳穴の壁を擦り、汗と水で濡れ煎餅のようにふやけた耳垢を次々と取り出す。マドカが言うには、俺の耳垢は特上もの、らしい。マドカにとっても、俺の耳との出会いは奇貨だったようだ。

クリクリ、クリクリクリ、と綿棒が耳の内壁を優しく擦る。流石、耳掻きを趣味にするだけあって、マドカの手つきは手慣れたものだ。まるで、その道のプロにするように、体を完全に預けてしまえる、確かな技術があった。

「よーし、じゃあ耳掻き棒を入れるよー」

マドカの声にうつらうつらしていた俺の意識が、すっと、耳穴に冷たいものが入ってくるのをとらえた。その金属製の耳掻き棒は、金属であるにも関わらず、耳壁を繊細な動作で掻き、綿棒では取りきれないこびりついた耳垢を剥がす。

カリカリ、カリカリカリ、コリコリ、と狙いが定まったのか、特定の箇所を金属の棒が攻め立てる。ペリペリ、と耳垢が剥がれた音が耳全体に響くと、喉の奥がジーンと突っ張るような感覚と共に、痒い所を思い切り掻いたときのような多幸感が訪れた。

「おー、中々おっきい耳垢が取れたよ」

マドカが耳掻き棒を俺の頭上にかざす。横目で見ると、そこには金属製の耳掻きの横幅を越える薄い膜のような耳垢が、頼りなく耳掻き棒にへばりついていた。

クリクリクリ、と、綿棒の動きと共に広がる、メンソールのようなひんやりとした清涼感のある感覚が耳から伝わる。どうやら、マドカがオイルのようなものを俺の耳に塗ったようだ。ひんやりとした触感を、空気の当たる部分に感じ、俺は心地よく目を閉じた。

「いくよー」

という声に続いて、フー、と、風が耳に当たるのを感じる。耳掻きの最後は耳に息を吹き掛けるのが定番だと、以前マドカが語っていたのを思い出した。半分寝かけていた俺だったが、先ほどのメンソールの清涼感が、耳に風があたることで、冷たいともいえる強い感覚を起こしたので、少しだけ意識が覚醒に近づいた。

「さ、反対やるよー」

マドカはうつらうつらとしている俺の側頭部を叩く。しかし、ほとんど眠っているような俺の状態を見て、仕方がない、と苦笑した。

「じゃあ、もうこっち向いてよ」

よっ、とマドカは俺の頭を持ち上げ、俺が頭の位置を入れ換えやすくした。こうやって、移動せずに反対側の耳掻きをやるのは俺たちの間では珍しくなかった。

薄目を開けた俺の目の前に、マドカのセーラー服があった。襟元から垂れるスカーフが、マドカの胸に垂れて、俺の頭上で呼吸に合わせて揺れている。夏服の薄っぺらい布は、向こう側が透かし見えてしまわないかと思うほど透明に感じた。

「じゃあ、いくよー」

俺の耳の中を覗き込んでいたマドカは、まるで医者のごとく机に置いてある耳掃除道具を見比べ、綿のつまった大きな綿棒を手に取った。

ジュ、ジュ、ジュワワ、と水を吸いながら外耳をすべる綿棒。どうやら、こちらの耳の方が、水がつまっていたらしい。クリクリ、と器用に綿棒を回すマドカの指は、横目でも細くしなやかに見えた。

シュ、シュ、と外耳を綿棒で拭い終えると、綿棒の反対側、まだ茶色く汚れていない真っ白な方を、今度は耳の内部に差し入れる。

ゴボ、ゴボ、ジュワワ、ボコ、と耳に響く低い水音が、俺の耳にどれほど水が溜まっていたかを教えてくれる。大きめの綿棒が、耳の中の水分を吸収しやすいように、ゆっくりと回される。

「いやー、あんた水被りすぎだよ。綿棒が一発で茶色くなっちゃった」

マドカは俺の頭上に綿棒をかざし、恍惚とは言わないまでも、興味深げにそれを眺めているのが分かった。俺は先ほどとは違い、横目で見ようとしても見えない幸せな状態であるので、曖昧な返事をするだけに留める。

シュ、と冷たい感触が、耳の繊細な部分から伝わった。どうやら、マドカは綿棒から金属製の耳掻き棒に持ち換えたらしい。こちらの耳も、マドカの繊細な指使いで、耳壁にこびりついた垢や汚れが掻き出される。

シュ、コリコリ、シュ、コリ、コリコリ、と金属の匙が触れるたび、そのひんやりとした感触そのものが、梅雨の湿気に火照った耳穴を冷ましてくれているような気がした。

「じゃあ、こっちにも塗っていくねー」

マドカの緩い声につられて俺の心も緩んでいると、匙とは違う、ひんやりとした感触が、耳全体に広がった。俺は、先ほどよりも強い眠気に誘われていたので、唸るような曖昧な返事をするに留まった。

さー、と梅雨のじめじめとした暑さが消え去るような強い清涼感が俺の耳を包む。どちらの耳も、涼しげな秋の夜長の縁側にいるかのように心地よかった。

「さー、耳掃除はおしまい。じゃあ、最後に」

いくよー、という声に遅れて息を吸う音が聴こえて、次に耳を抜ける涼しげな風。俺の耳に息を吹き終えたマドカは、職人が仕事をやり終えたときにするような息を吐いた。

俺はマドカの息を感じるほぼ同じ瞬間に、眠りに落ちた。


雨音がやむことなく聞こえる文芸部室の、男女ふたり。女は寝息を立てる男を起こさぬよう、ゆっくりと男の髪を手で梳いていた。

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