この割れ切った世界の頂上から見える景色
「この割れきった世界の片隅で」という記事を読んだ。
いろいろ思うところがあったので、書いてみたい。
記事のタイトルにある「割れ切った世界」というのは「分断された社会」のことを指している。多くの人が、今自分が生きている世界(所属している社会)を「普通」だと思っているが、それは思いのほか普通ではないよ——という話だ。特に、恵まれた環境に生まれた人の考える「普通」は、けっして普通ではない場合が多い。
筆者の鈴さんは、長崎の地方社会で生まれ育った17歳の高校生だ。小さい頃は県営住宅に住んでいたが、小学校からは一軒家に移り住んだ。小学校の同級生は、片親や貧困家庭、学習困難児が当たり前のようにいた。まともに学校にも来られない子もたくさんいた。
鈴さんは、そうしたいわゆる「貧困層」でこそなかったものの、それでも受験が必要な一貫校の中学に進学してからは、それより上位の——特に東京の恵まれた人たちとの格差に苦しむことになる。
鈴さんの小学校は、同級生に障害児がいる方式だったので、彼らに対する労りの心を自然と育めるようになった。同時に、「人間の生まれた環境の違い」というものを強く意識するようになった。そうした状態で、中学に進んだ。ところがそこで、「成績が悪くて先生から怒られる」という現場を初めて目撃する。小学校では、「勉強しないこと」で怒られることはあっても、「テストの成績が悪いこと」で怒られる生徒は一人もいなかったからだ。つまり、成績は悪くて当たり前、勉強するだけえらいという学校だった。
また、多くの同級生と会話が普通に成立することにも驚いた。小学校のときは、語彙力がすでに同級生とは大きく差がついてしまったため、意味を説明しなければならない場面が少なくなかったからだ。
そういう体験を通して、鈴さんは次第に「分断された社会」を意識するようになる。そして、その不公平は「生まれた場所によって起きる」ということを痛感する。今の社会は、生まれた環境で人生がほとんど決まってしまう。「それはあまりにも不条理」と感じた鈴さんは、そうした状況を是正するために働きたいと強く願うようになる。
そこで鈴さんは、国連職員を志す。国連職員になって、世界の不公平を是正するために働きたいと考えたからだ。そして、中学のときに運良く無料でフィリピンに視察に行ける機会に恵まれた。すると、そこでは日本以上の貧困に喘いでいる子供たちがたくさんいることを目の当たりにし、ますます世界の不公平を是正したいという思いを強くするようになった。
しかし、そのためには鈴さん自身の「環境の壁」が立ちはだかった。自分の今居る環境では、国連に就職できるようなハイレベルの学習をするのが困難だった。あるとき、国連には英語が必要だろうと考え、努力して英語スピーチの全国大会に出場が叶った。そこで、自分は拙いジャパニーズ・イングリッシュで発表したのに対し、他の出場者はネイティブ・イングリッシュを自在に操っていた。しかも彼らは、本番どころか控え室でも普通に英語で話していた。聞けば、そもそもが帰国子女なのだ。海外で生まれ育った子供たちだった。優勝は、もちろんそうした帰国子女が当たり前のように獲得していった。
そうした彼我の格差を目の当たりにした鈴さんは、格差の上位者たちと交流するうち、彼らが「自分は普通だ」と思っていることを知るに至って、大きな違和感(もしくは憤り)を覚える。そして、「それを普通と思うのは違う」と記事で問いかける。数で言えば、鈴さんが接してきた中低層の人たちの方が圧倒的に多いのだ。むしろ、そちらが普通なのだ。
そういうことを、格差の上位者にも知ってほしい——記事は、そういう趣旨の内容であった。他にも、鈴さんの生い立ちや、そのときどきで感じたこと、貧困家庭のクラスメイトのエピソードなど、いろいろ印象深いことが書かれているので、ぜひ読んでみてほしい。
ところで、ぼく自身はこれを読んで、面白い(興味深い)と思ったのと同時に、とてもモヤモヤした気持ちも抱いた。というのも、ぼくは彼女のいう「割れ切った世界」の「頂点」に君臨する存在だからだ。鈴さんのいう格差の最上位者だからだ。最も恵まれた子供——トップ・オブ・トップだったからだ。
ぼくは、おそらく鈴さんが憧れ、手に入れたいと望んでいる全ての環境を生まれながらに持っていた。鈴さんは、私立中学に憧れ、英語がネイティブに話せることに憧れ、海外生活に憧れ、インターナショナルスクールに憧れ、東京の有名大学に憧れ、海外の大学に憧れている。
それに対し、ぼくは子供の頃に海外生活を複数回経験し、英語こそネイティブではないものの、インターナショナルスクールに通い、その後私立の学校に転入した。東京の有名の大学に進学した。
鈴さんの夢は、国連職員だ。中学生のとき、生まれて初めて国連職員と直接話すことができ、涙が止まらなかったそうだ。そのときの思いを、彼女は、こう綴っている。
国連職員の方に会った瞬間、涙が止まらなかった。こんなにちっぽけな自分に、雲の上の存在の方が目を合わせてくださっている。頭を撫でてくださっている。その事実だけで嗚咽が止まらなかった。
これを読んで、なんだか胸が苦しくなった。なぜなら、ぼくは彼女の言う「雲の上の存在」の、「そのまた上の存在」だからだ。いうなれば、神の中の王のような存在だ。ゼウスのような存在だ。そんな彼女は、ぼくのことを知ったらどう思うのだろうか?
そこでこの記事では、鈴さんが読むかどうかは分からないが、世界で最も恵まれた人間——ゼウスの人生がどういうもので、今はどういう生活をしているか、また社会の分断についてどう思っているか、あるいは「普通」についてどう思っているかなどを、できうる限り伝えたいと思う。
まず、簡単にプロフィールから紹介したい。
ぼくは、1968年の生まれだ。生まれた病院は東京の慶応大学病院だったが、それは父の兄(叔父)がそこで医師として働いていたからだ。
ただ、母がぼくを宿したのは、アフリカのガーナである。父が、ガーナ大学で英語の講師をしていたため、両親はガーナで暮らしていた。1966年にガーナに渡って、ぼくが生まれるのを機に帰国した。まだ日本人が海外旅行に行くのも珍しかった時代に、しかも当時の日本にとってはほとんど交流がなかった西アフリカの国で、ぼくは受胎した。
両親は、ぼくが生後一ヶ月のときに、今度はアメリカのボストンに移住した。父が、ハーバード大学の大学院に進学するためだ。そのためぼくも、0歳から2歳までを、ハーバード大学の学生寮で暮らすことになった。
そんなふうに、ぼくは生まれながらにして、60年代のアフリカという世界最貧地域と、ボストンのハーバード大学という世界の知識層の中でもトップに君臨する人々と、身近に接せられた。世界の最底辺と頂点とを行き来する、世界でもきわめて希有な移動の自由さを獲得していた。
そういう環境に生まれたので、ぼくには初めから世界を知るのに苦労がなかった。得たい情報があれば、何でもほとんど瞬時にアクセスできた。
2歳で日本に帰ってきてからは、世田谷区に1年住んだ後、3歳から東京の日野市で暮らすことになった。いわゆる「多摩ニュータウン」である。かつて、ジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』に出てくるタヌキたちが暮らしていた場所だ。
この新興住宅街には、所得的には若い中流層が暮らしていた。ぼくの両親も、お金持ちではなかったが貧乏でもなかった。祖父からの援助もあって、ぼくが3歳のときには、広い庭のある大きな住宅を建てた。そこは山の頂上の見晴らしのいい場所にあり、敷地は周囲の家の三倍もあって、しかも建築家である父が自ら設計した建物だったので、とても目立った。一見して、そこが特別な家であるというのは誰もが分かった。ぼくの友だちは、ぼくの家に来るとみんな感心した。逆に、ぼくが他の家に行くと、「どうしてみんな、こんなつまらない作りの家に住んでいるのだろう?」と疑問に思った。他の子供の家は、個性というものが全くなかったのだ。
そういう環境が、ぼくにも少なからず影響を与えたと思う。しかしそれは、いわゆる「普通の人」が考えるのとは全く違った影響だ。普通の人は、そういう家庭に育つと「自分の家柄を自慢する鼻持ちならない子供になるだろう」と想像する。「おれはハーバードで暮らしてたんだぜ」とか「おれの家はでかいぜ」などということを誇りとするような、つまらない子供に育つだろうと想像する。
しかし、現実は全く予想外の方向に進んだ。両親も含め、誰もが全く予期しない人間に育ったのだ。
ぼくは、物心ついたときから「自分はきわめて特別な存在である」と意識するようになった。「自分は天才である」と思うようになった。「自分は、頭脳で世界の頂点に君臨する存在だ」と、3歳くらいから思うようになった。
そして、そのことを父は理解してくれなかった。父は、ぼくの言うことをいつも「単なる屁理屈」と決めつけた。そのためぼくは、いつしか「ぼくは父よりも頭がいい」と考えるようになった。父は頭が悪く、ぼくの言っていることが理解できないのだ、と思ったからだ。そうしてぼくは、自分が天才であると思うようになったのである。
そんなふうに、ぼくは3歳のときから「自分は天才だ」と思って生きてきた。ちなみに、母はもっと話が通じなかったため、やはりぼくはバカにしていた。弟は幼かったので、そもそも眼中になかった。
おかげで、ぼくは家で孤独だった。同様に、保育園や小学校でも、周りと話が合わずに孤立した。知的な会話を誰とも交わすことができず、いつも鬱々としていた。母も働いていたから保育園に通ったのだが、そこでは特に孤独をかこっていた。
しかし、そういう「分断」を保育園児にして意識するようになったのが良かったのかもしれない。やがてぼくは、「分断を越境する方法」を模索し始めた。有り体にいうと、自分より頭の悪い同級生と仲良くする方法を考え始めたのだ。
頭の悪い同級生とつき合う方法は、大きく二つある。一つは、頭を使う必要のないところでつき合うということだ。例えば、ぼくは野球が好きだった。見るのも好きだったが、プレーするのも好きだった。ただし、それほど上手いわけではなかった。下手ではなかったが、ぼくより上手い同級生は何人かいた。
そういう同級生となら、仲良くできた。なぜなら、その人たちは野球ではぼくより上なので、バカにする必要がないからだ。野球の話をしていれば、話が合わなくて苦労するということもなかった。一緒に野球している限りにおいては、上手い彼らを尊敬することすらできた。
そういうふうに、知的な側面以外でなら友だちになれるという術を、ぼくは子供の頃に身につけた。ただし、そうはいっても何かの拍子で知的な会話になってしまう場面があった。そうなると、ぼくが必ず相手を言い負かしてしまうので、気まずい関係になることがしばしばあった。だから、野球友だちとはあまり深い関係になることはなかった。
頭の悪い同級生とつき合うもう一つの方法は、ぼくが「上」になって相手に教えてあげることだ。ぼくが先生になることだ。そうして、相手に生徒になってもらうのである。
そういう関係なら、ぼくは上手くいった。昔から、ときどき無条件で「ぼくの頭の良さ」を認めてくれる人がいた。その人たちは、もちろんぼくよりは頭が悪いのだが、ぼくの頭の良さが分かるという意味では、普通の人よりずっと頭が良かった。ぼくにとっては、両親よりも頭がいいといえた。
だから、そういう人たちを選んでつき合うようにした。それから、自分が頭がいいことを変に隠したりしていると、かえって上手くいかないということも、中学・高校時代に学んだ。そのため、大学からは素を出し、自分は頭が良いということを積極的に表明するようになった。そうすると、今までのような無用な喧嘩は避けられるようになった。
ちなみに、ぼくの父はぼくが小学5年生のとき、「国連職員」に転職した。そうして、2年間タイのバンコクに暮らした。そこで、難民を救うための事業をするためだ。建築家なので、難民が暮らすためのキャンプを設計した。
つまり、ぼくの父は鈴さんがまさに憧れ、雲の上の人と仰ぎ、なりたいと心から願うような人物なのだ。そして、ぼくはその父を、3歳の頃から自分より下に見ているのである。
それがぼくのだいたいのプロフィールだ。その後もいろいろあったが、どうにか今年、52歳まで辿り着いた。
さて、そんな頂点に立つぼくが、鈴さんにいえることがあるとするなら、ぼくのような頂点に立つ人は、必ずしも自分の環境を「普通」とは思っていないということである。ぼくは、物心ついたときから、自分が普通だと思ったことは一度もない。そのため逆に、「普通」に苦しめられた。みんな、普通とは違うぼくを圧迫するからだ。おかげで「普通とは何か?」ということは、おそらく人一倍考えた。ぼくより頭の悪い人たちが押しつけてくる普通というものを知らなければ、それこそ普通に生きることもままならなかったからだ。
ただし、ぼくのいう「頭の悪い人たち」とは、鈴さんがいうところの上位者である。雲の上の存在だ。そこが、いくらかややこしいところである。鈴さんは、自分が雲の上の存在と仰ぐ人を、さらに見下ろす人がいることを知っているのだろうか? そしてその人は、鈴さんが言う「自分は普通である」などという甘い考えでは生きていないということを知っているだろうか? それよりも、やっぱり普通に圧迫されて苦しんでいることを知っているだろうか?
ぼくは、世界の頂点に立っているが、自分のことを恵まれていると思ったことはあまりない。なぜかというと、孤独だからだ。ほとんどの人と話が合わないからである。それどころか、迫害される場面が少なくない。こうして素直に「ぼくは頂点だ」とカミングアウトすると、怒ったり、バカにしたりする人がたくさんいる。
そういう苦労を、ぼくは52年間積み重ねてきた。その中で、いつしか「恵まれているとは何だろう?」ということを自分自身に問いかけるようになった。自分は、表面的には確かに恵まれている。実際、世界で一番頭が良くなれたのは、その環境の恩恵も大きいだろう。ただ、それが果たして良かったのだろうか? 自分は、鈴さんがいう「恵まれていない人たち」と比べて、本当に恵まれた立場にあるといえるだろうか?
ぼくは、必ずしもそうではないと思う。表面的には恵まれた環境に生まれようとも、そこで不幸になる人は多くいる。その逆に、表面的には恵まれていない環境に生まれても、幸せになれる人も数多くいる。統計をしっかり出れば、そこにそれほど差はないのではないだろうか。
ぼくは、自分が恵まれた環境に生まれながら、必ずしも恵まれた人生を送っていないと感じている。その中で辿り着いた結論は、「環境の格差は必ずしも人生の大きな決定因子ではない」ということだ。それよりも、その人の人生を豊かにしたり貧しくしたりする大きな要素がある。
それが何かというと「謙虚さ」だ。結局、謙虚さだけが人生を豊かにする。そして謙虚さは、恵まれた環境より、むしろ恵まれていない環境の人の方が持てる可能性が高い。恵まれていない分、余計なプライドを持つ必要がないからだ。
ただ、実際は必ずしもそうならない。不思議なことに、恵まれていない環境で育った人でも、プライドの高い人は多い。その逆に、恵まれた環境で育って、謙虚な人も少なくない。
そう考えると、結局は、どちらの環境でも謙虚な人は同じくらいの割合だ。だから、謙虚さは必ずしも環境が決定しないといえる。それよりも、その人の持っている先天的な資質に依拠する部分が多い気がする。
ぼくはこれまで、父をはじめとして無数の「雲の上の存在」と交流してきた。同時に、日野市の小学校やタイのスラム、あるいは社会に出てから、いわゆる貧困層の人たちとも間近に接してきた。現在の妻も、いうならば貧困層出身だ。その中で、謙虚な人とそうでない人が、どの層にもいるのだということを知った。
そして、ここからが重要なのが、謙虚さが人生を分けるのは、社会に出てからだ。謙虚さを持つ人は、社会に出てから大きく伸びる。一方で、謙虚さがない人は、たとえ環境に恵まれていても、あっという間に沈んでいく。その差は、生まれてきた環境など取るに足らないといえるほど大きい。それほど、明確な差がつくのである。
そういうことが分かるようになってから、ぼくは生まれた環境が気にならなくなった。元から自分の生まれた環境を自慢する気持ちはなかったが、恵まれていない環境で生まれてきた人のことを同情することもなくなった。生まれた環境では人生が決まらないというのが、ぼくの至った結論だからだ。
「人生とは選択である」というのが、ぼくの結論である。その人が幸せになるかどうかは、その人自身が選択できるのだ。だから、不幸な人生というのもその人の選択となる。そのため、「不幸な人を助ける」ということも、本質的にはできないと考えている。
例えば今、ぼくは鈴さんに対して素晴らしいアドバイスをしている。そういうふうに、人はいつだってチャンスをつかみかけている。しかしながら、そこでチャンスをつかむ人と逃す人とに分かれる。つかむ人は、謙虚な気持ちでぼくのアドバイスを聞き入れる。一方、謙虚さのない人は、ぼくの言うことをめちゃくちゃだと思って聞き流す。そうして、チャンスを逃すのだ。自ら、不幸を選択するのである。
それは、選択である。そしてその選択は、生まれた環境とほとんど関係ない。だから、誰かを助けるという行為は、そもそも成立し得ない。ぼくが助けようと思っても、その人がそれを選択しないことには、助けるという行為は成り立たないからだ。
そういう結論づけてから、ぼくは「社会の分断」は、むしろ人々の選択と考えるようになった。そうして、それを是正しようとは考えなくなった。
それが、この割れ切った世界の頂点から見た景色である。ただ、この考え方は全く「普通」ではない。世界で一番頭がいい人は、こういうふうに普通ではない。そして、それがゆえに孤独で、不幸なところがあるのだ。
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