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みじめな人々が起こす次の「戦争」

「頂き女子」の事件が気になっている。なぜかといえば、今の世相の一つの象徴ではないかと思うからだ。ドストエフスキーなら小説の題材にしただろう。「頂き女子」はきわめて文学的な存在だ。

「文学的な存在」とは何か?
それはズバリ「みじめ」ということである。みじめこそ、文学の最も主要なテーマの一つだ。なぜかといえば、みじめという感覚は高度に人間的で、我々の感性に強く訴えかけるものがあるからである。

動物には「みじめ」という感覚はない。しかし人間には強くある。「みじめになりたくない」と、どんな境遇の人間でも思う。その願いは、生まれたばかりの赤ん坊から死ぬ間際の老人まで、等しく有している。

「死にたい」と思う人間はいくらでもいる。しかし「みじめになりたい」と思う人間は一人もいない。実は、人はみじめになりたくないから、死にたいと思うのである。それほど、人はみじめを嫌う。

頂き女子が世間の耳目を集めるのは、多くの人がそこに「みじめさ」を感得するからだ。何よりその被害者に、どうしようもないみじめさを認め、誘蛾灯に惹かれる蛾のごとく吸い寄せられる。

ただし、頂き女子のユニークなところは、その被害者がみじめであるばかりではなく、加害者である頂き女子の方もみじめということだ。つまり、「みじめな人」ではなく、「みじめな人々」なのである。複数形だ。文字通り「レ・ミゼラブル」である。

『レ・ミゼラブル』は、主人公のジャン・バル・ジャンがまずみじめな存在であるが、コゼットやその母もみじめな存在である。これを追いかけるジャベール警部もみじめな存在だ。

「頂き女子」の事件は、それと同じで「みじめな人々の一群」を為しているから興味を引かれる。りりちゃんの詐欺の被害者、被害者の親、りりちゃん本人、りりちゃんの親や、そのマニュアルを買っていた人、マニュアルを買っていた人の親、加えて西新宿でめった刺しにされた女性や、車とバイクを売ってめった刺しにしたストーカーの犯人。皆が皆、みじめである。

変な話だが、太平洋戦争時には、こういう「みじめな人々」はいなかった。みじめな人々は、戦争と戦争の間の中間期に生み出される。
そして、その中間期に生み出されたみじめな人々が、次の戦争を始めてきた。だから日本の「みじめな人々」は、戦争前の昭和前期にはたくさんいた。皆そこから抜け出したかったから、たとえ無茶でも太平洋戦争に突入したのである。

つまり今は戦争前である。これから、みじめな人々が戦争を起こすだろう。
ただしそれは、もちろん太平洋戦争のような戦争にならない。もっと違った形になるだろう。

では、それはどんな形になるのだろうか?

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