
大分のるろうに伝説
るろうに剣心のモデルが実在した!?
先日、今更ながらアニメ「るろうに剣心」の実写版をまとめて視聴しました。
いやー佐藤健さん本当にハマり役ですね。
剣心の華奢な感じといい、鋭い眼光といいまんまですねー(`・∀・)
興奮が冷めやまないので勢いで剣心について書き殴ろうと思います!!
飛天御剣流の達人で無敵の緋村剣心にモデルがいることをご存知でしょうか。
剣心のモデルは、実在した幕末の四大人斬りにも数えられる河上彦斎と言われています。

河上彦斎は、肥後細川藩の下級藩士の家に生まれます。熱心な尊皇攘夷思想(国内から外国人を排し、天皇新政を実現しようとする考え)の持ち主で八月十八日の政変で京を追われた後は長州藩士たちと行動を共にします。
禁門の変や第一次長州征伐にも長州側で出陣し多くの武功を挙げますが、剣心と異なるのは鳥羽伏見の戦いには獄中であったため参加していません。
悲願である攘夷遂行のため、実際に何人斬ったかはさだかではありませんが、岡田以蔵・田中新兵衛・中村半次郎と並び幕末の四大人斬りに数えられるので結構斬ったんでしょう:(´◦ω◦`):
1番有名なのは松代藩軍議役の佐久間象山の暗殺ですね。
人斬りというとどうにも屈強な熊のような男性を想像しがちですが、河上彦斎は女性と間違えられるほど華奢で色白。身長も当時としても小さい150cmほどだったと言われています。温和な性格で親思いで妻子にも優しかったそうです。
この辺もまんま剣心ですよね!!
そして何よりも得意とする剣技は、片手抜刀術で片足が地面に着くほどの低い位置から繰り出される神速の逆袈裟斬りだったと言われています。
まさに天翔龍閃ではございやせんか!!!!
流派は、我流とも伯耆流とも諸説あり、さすがに飛天御剣流ではありませんが居合術を得意とする流派のようです。
抜刀斎大分へ!
そんなリアル剣心が大分に滞在していたことがあるんです。
場所は鶴崎。
明治維新が成った後、出獄した彦斎はここも剣心と同じく明治新政府の中での出世を望みませんでした。
彼の目標はあくまで攘夷。高田源兵衛と名前を変えた彦斎は、かつてより親交があり政府の要職に就いていた桂小五郎(木戸孝允)に攘夷を嘆願します。
攘夷遂行を旗頭に幕府を倒した新政府でしたが、倒幕後の旗色は開国一色。
当然聞き入れられるはずもなく、既に生じていた彦斎と長州藩の確執はここで決定的なものとなります。
一時は新政府転覆も画策した彦斎でしたが、1869年に肥後藩の繋がりで大分の鶴崎に有終館という塾を設立し、藩兵隊長として海兵200人、陸兵100人へ兵法や学問を教えるようになります。旧知の尊攘志士が新政府へのクーデターを持ち掛けにきたことが何度かあったようですが、全て断ったそうです。
有終館の名の通り、大分の地で有終の美を飾ろうとしていたのかもしれません。

しかし、そんな大分での日々も束の間。1870年7月に突如、大村益次郎や広沢真臣ら要人の暗殺の疑いをかけられ11月に捕縛されてしまいます。
翌年には投獄され江戸に送られます。
そして大した詮議もなされぬまま、1872年1月13日に日本橋小殿場町で斬首されます。享年38歳。
実際にこの暗殺に彦斎が関わった事実はなく冤罪の可能性が高いと言われています。
指示を出したのは、新政府の要職に就いており、かつての盟友であった桂小五郎でした。
要するに頑迷な攘夷論者で利用価値のなくなった旧時代の遺物を体良く葬ったということなのでしょう。
人斬り抜刀斎伝説
こうして侍の時代の終焉とともに世を去った河上彦斎。
ここまで見ると時代に翻弄された悲劇のラストサムライ感が強いですが、剣心とは違った残忍でサイコパスな一面も記録に残されています。
彦斎が行った暗殺の中で唯一公的に認められているのが前述した佐久間象山の暗殺です。
同年に池田屋事件で師と仰ぐ宮部鼎蔵を失った彦斎らは、怒り狂い熱心な公武合体派で開国論者として知られる佐久間象山を黒幕と断定し襲撃します。
犯行は白昼堂々と往来のど真ん中で行われました。ここまでは良いのですが、剣心のように1人ではなく6〜7人で四方八方から襲い掛かったと言われています。
彦斎は個で強いというよりも集団での暗殺術に長けていたようで目標の達成のためには手段を選ばないタイプでした。
彦斎の放った初太刀は、象山の胴から大腿部を切り裂きます。初太刀で切断寸前の重傷を負わせ、間髪入れずニの太刀で頭を割ったといいます。このことからも剣の腕も並大抵のものではなかったことがわかります。
こんな逸話も残されています。
酒の席で仲間が気に入らない幕吏の悪口を言っていたところ、彦斎は無言で立ち上がり外へ出ます。しばらくして戻ってきた彦斎の手には件の幕吏の生首が...…:(´;Д;`):
そして一言。
「拙者が天誅を下したでござる。この首を肴に一杯飲むでござるよ。」
...( ꒪⌓꒪)一同ドン引き
また、あの勝海舟も彦斎にビビり上がっていたようで談話集に彦斎とのやりとりが残されています。以下剣心語訳。CV.涼風真世さんもしくは斎藤壮馬さんでお楽しみください。
勝「お前人殺しすぎ!可哀想とか思わないの?」
彦斎「拙者が人斬りと知っているのでござるか。」
彦斎「自分の畑にできた胡瓜や茄子はどうするでござる?すぐにちぎって沢庵にするでござろう?それと同じでござるよ。彼らには何を言っても意味がないゆえ早くちぎるに限る。彼らを幾ら殺したからといって何でもないでござるよ。」

うん、人斬り抜刀斎でも言わなそうなセリフ。笑
長州側の公卿である三条実美も彦斎との仲違い後は「彦斎が生きている間は枕を高くして寝られない」と周囲に漏らしていたとの話もあります。
人を南瓜や茄子のように無心で斬り捨てるリアル人斬り抜刀斎。
顔を見ただけで隠れる者もいたと言います。
あとがき
しかし、人斬りとして同列視される岡田以蔵のように指示された人物を淡々と殺害していたのではなく、あくまで「攘夷」という確固たる信念がありました。
それを証拠にどんなに時勢が変わろうとも死の瞬間まで一貫した攘夷論者でした。
この辺の意思の強さも剣心に通じるものがありますよね。
一説には、散々にこき下ろした勝海舟も「怖いけど気持ちの良い男」と一目置いていたといいます。
河上彦斎の人間像を見ていくと剣心ぽくもありますが、冷酷さや最期などは志々雄真実にも通じるものがあると思います。
原作者の和月さんは、情熱と狂気の二面性を持った河上彦斎という人物を緋村剣心と志々雄真実という2人のキャラクターで表現したのかもしれませんね(´ω`)