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親切にされるということ。

このところ、人から親切にされることが続いている。
とてもうれしいと同時に、親切にされるというのは「一歩踏み込まれること」なのだと気がついた。

思ってもみなかった一言をかけられたり、祝福されたり、贈り物をもらったり。そういうとき、親切な人たちは、僕のとっていた距離よりも近くに来て、僕を驚かせる。

びっくりした後、うれしい気持ちがじわ〜っと出てくる。

人と人は、安心して生きていくために距離をとる。ずけずけと土足で入り込まれることを嫌う。にもかかわらず、思いもよらない形で一歩踏み込まれることを喜びもする。

自分が張っている予防線の内側で、踏み込んできた人たちの親切がしみる。

今日はお店でそういうことがあって、うれしかった。
そのお店は珍しいお店で、お店なのにときどき家みたいになる。そういうときには「店員さん」がいつの間にか顔の見える「誰々さん」になっている。それが意図的ではなくて、自然に起こる。

だから、話をしていて楽しい。自分が「お客さん」だか「友だち」だか「家族」だかわからない、不思議な、しかし居心地のいい距離感で話をしているのがわかる。そうして、この店は僕にとって、お店なんだけど仲間のような、特別な場所になっている。

そういうふうに「一歩踏み込んで」くれた人たちに困ったことがあったら、僕はなにかしら動くだろうな、と思う。

人が困っているときに、思わず腰が浮くか。ぱっと動けるか。
僕はつねづね、その一歩が踏み出せずにいた。だからこそ「動くだろうな」と思えるいまの状態が珍しく、新鮮なのだ。

話は飛ぶが、この「一歩踏み込む」をはじめて体験したのは、夫婦げんかの時だ。

そのとき、奥さんは容赦無く、妥協なく「仲良くする」ことを放棄した。だからこそ生まれた距離の近さ、抜き差しならなさ。それは人生初の体験だった。それまではそんなに近づかずに、上手にかわして逃げていたのだな、といまなら分かる。

その距離に入られたときに見える自分は、それまでの自分とは違った。
そうして、ひどいけんかを何度もして、お互い見たくない己もみた。
しかしいま、もっとも身近に、絆といってもいい結びつきを感じ、困っていたら力になりたいと思うのは、その奥さんだ。奥さんのことなら、すぐに動ける自分はごく最近生まれた自分である。

面白いのは、いちばんひどい言葉を自分にぶつけた人が、自分にとっていちばん身近になっていることだ。それと似たような接近が親切にもあると思う。

そして人と人はそのたった一歩のところで触れあえずに苦しんでいるのではないか、という気もする。

その一歩を踏み込んだとき、そこはお店であって、お店ではなくなる。その人は他人であって、他人ではなくなる。もっと近くて親しい、名前のつけられないなにかになっている。大事になる。

そんな思いがけない親切を立て続けに受けて、まだ驚きが残っている。
やっぱりうれしいよりも先に、どうしてもびっくりしてしまう。

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澤 祐典
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