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どうしたらできるようになるのか。

お昼に、ギターの先生に話を聞かせてもらった。
新春、今年こそは「楽器が使いこなせる感覚」を身に付けたいと思ったからだ。僕は長年にわたって、この感覚が身につかないことを不満に思っていた。

先生は「アドリブだ」と教えてくれた。
それが答えだと僕にはわかった気がした。

しかし、身体は動かない。どうしたらいいのだろう、あれをやってみようという気にはなるのだけれど、ぐぐっと立ち上がってくる感じがしない。まるで、まだできない状態を好むかのように。

やりたいはずなのに、やらない。
もう長年、この状態が続いていた。

できるようになるまでは、どうやってもできない。その間のウダウダしている時間は、やがて別の角度からの光に照らされて配列を変え、たちどころに「悟り」となる。急成長するように見えるとき、そこまでの停滞の歴史が縦に並び替えられて、坂道のようになるのではないか、そんな話もした。だとしたら、僕の停滞感も必要なタイミングまでは、このままなのだろうか。

一方で、そんなふうに渇望しなくてもうまくなっていったこともある。
歌や作曲や聞くことがそれだ。これらは使いこなせている実感がある。そして、やればやるほど新鮮だ。だからこそ、楽器にそれが向かないのが悔しいのだ。

 重大な発見があるのではないかと強く身構えるとき、その人の中でほとんど無意識的に「重大なもの」が設定されてしまう。そして、その想定から外れているものを見過ごす。安易な未来への予測は、想像を超えてやってくる、未知なる出来事の到来を邪魔しているのかもしれない。
 本当に探しているものが何であるか、本当に必要なものがどんな姿をしているか、人は知らないことが多い。また、望んでいるものが、望んでいるかたちをして顕れるとは限らない。世界は、意味ある機会に満ちている。人生を創造するような邂逅を妨げているのは、私たちの意図と計画なのかもしれないのである。
(若松 英輔『悲しみの秘儀』より)

これは昨日の『ありのままがあるところ、を読んで。』というオンライン読書会で引用された文章。そして『ありのままがあるところ』には、こんな文もある。

「子供達は理解するというより、印象をよくつかむのは、その印象が新鮮であるからで、知恵がつく程、印象のつかみ方が鈍感になるのは、理解しようとする要望が多くなるからである。」
(池田三四郎『美しさについて』)

僕はギターの先生の話を聞き、自分に欠けているものを把握しようとした。
「把握」という言葉は、なにかを握りつぶすようなニュアンスがある。一方、ギターの先生の言う感じや「重大なもの」の現れ、子供の印象のつかみ方には、もっとふわっと空気の入った心地よさがあるように感じられた。

「アドリブには、ロジックがあるんですよ」と先生は言った。ぐちゃぐちゃのカオスではなく、ロジックがあるからこそ次の一歩が見える。その一歩が次の一歩につながっていき、やがて複雑な網状に拡がっていく。

歌や作曲や聞くことでは、その透明なロジックのようなものが感じ取れているのに、楽器でそれができないのは、なぜなんだろう。

まだ、考えている。
もしかすると、考えることが一番の遠回りかもしれないけれど。

『ありのままがあるところ』のさっき開いたページには、こうあった。

「悩む必要はない。あなたは考えて描く人だからそうすればいい。彼らは考えずに描く人。そうなりたいのはわかるけれど、そこは嘆かなくていい。自分はあくまで自分でしかないのだから」

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